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心の闇を照らすもの(2)



「マリア、そばにおいで」


 ここが宮殿内のダイニングルームなら、目上の者と近い席はまず避けられ、少なくとも正面から数席を隔てて座らされるはずだ。


「昨夜は……っ、本当に、申し訳ありませんでした」


 深く頭を下げるマリアにいつもの慌てた様子は無い。落ち着きを心がけ、マリアなりに心からの謝罪の意思を示そうとしていた。


「なぜ謝る。マリアは『お茶役』、つまりは俺を眠らせる役目を果たしただろう?」

「いいえ、愚かな私は……あろうことか寝坊をして、あなたのお支度を手伝いませんでした。それに……」


 ──ジルベルトの寝台で眠ったことだって、謝らなければ。


 ようやく顔を上げたマリアに、椅子を引いた侍従が早くしろと言わんばかりに鋭い視線を送る。


 マリアとて、一国の王女の端くれだ。

 直径の王子が生まれるまで王城で暮らしていた頃は、それなりの教育を受けていた。離塔に追いやられてからも、立ち居振る舞いや作法を母親自らが教え、身につけさせようとした。


「こちらで本当によろしいのですか?」


 引かれた椅子はジルベルトの真隣だ。侍従がマリアにうなづけば、


「畏れながら、失礼いたします」


 素性を隠そうとする警戒心よりも、幼い頃から身に染み付いた習慣がまさる。

 マリアは当然のように、ジルベルトに向けて控えめなカーテシー(淑女の礼)を披露したのち、しなやかに腰を下ろす。


 『皇太子のお茶役は下女だ』との噂を耳にしていた侍従が目を見張った……のはさておき。

 高貴な身分を持つ者達への礼節を、マリアはすべからくわきまえていた。


 落ち着いた素振りを見せるマリアだか、心の中は違っている。

 重厚な漆黒の礼服を整然と着こなし、上級貴族たる気品と威厳に満ちたジルベルトに見惚みとれてしまい、胸の高鳴りがおさまらない。


 投牢されていた頃の、無精髭を生やした囚人の姿。

 湯浴み上がりの軽装で膝枕をねだり、マリアの膝の上でくつろぐ姿。


 どちらも知っているけれど、漆黒の礼服は薄灰の髪色とアイスブルーの瞳にとてもよく似合い、ジルベルトの凛々しさを強調するようで素敵だと思う。


 昨夜、同じ寝台で眠ったと思えばなおさら鼓動が跳ねる。

 そのジルベルトが、唐突にも自分を『愛らしい』と言ったのだ。


 ──ジルベルトは私を、小動物か何かを見るような目でご覧になっているのかも……?


 誰かに『愛らしい』などと言われた記憶が無いマリアは、ジルベルトの言葉をそのまま受け止めることができない。

 鶏がらだ、みすぼらしい、そそっかしい。それがマリアの代名詞。

 王女であった時分でさえ、宮廷行事の時にだけ顔を見せる姉弟たちから『卑しい』『愚劣だ』とのさげすみを散々浴びせられてきたのだから。


 マリアが席に着くと、テーブルに片肘をついたジルベルトの薄いブルーの双眸に見つめられた。昼食の席だとはいえ気を張る貴族同士ではなく、心易いマリアを相手に随分と気を許しているようだ。


「そんなにじっと見られると、幾ら小動物でも恥じらってしまいます」

「小動物?」

「私は……何の動物に似ているのですか?」

「動物。それは考えた事が無かったな。何に似ているか……」


 ジルベルトは形の良い顎にこぶしをあてたまま、思案を巡らせる。

 頬に影を差す翼のまつ毛。秀麗な面輪の輪郭を囲む、漆黒の礼服の高い襟。その襟元に付けられた黄金の鷲のブローチが、ジルベルトが動くたびに煌めいている。

 マリアがぼうっと見つめている間に質問の答えが出たようだ。


「捨てられた仔猫、かな」

「仔猫……ですか? ふふっ、確かに、愛らしいです」


「ン、愛らしいはいけなかったか? 褒めたつもりだが、愛らしいじゃなく美しいと言うべきだったか」


 顎に拳をあてたままジルベルトが真剣に考え込んでいるので、マリアはますます戸惑ってしまう。


「いいえ、そんな……っ。あなたが愛らしいとおっしゃったのは、私が小動物か何かに見えたからだと思ったので、何に見えたのかをお聞きしただけなのです」


 小動物か何かに見えた。

 マリアが突拍子も無い事を真顔で言うので、ジルベルトは、ぷ、と吹き出した。


「マリアが小動物に見えたから、愛らしいと言ったのではないよ」


 微笑みをたたえたジルベルトの薄いブルーの瞳が、水辺のさざなみのように優しく揺らめいた。

 ガゼボを囲む木々を揺らした風が頬を心地良く撫でる。


「単純にマリアを愛らしいと思ったから、そう言ったのだ」


 手袋をはめた大きな手のひらが伸びてきて、長い髪を結えたマリアの後頭部を力強く包み込む。そのままぐっと引き寄せられたので、額と額がこつんとくっついた。


「マリア頭の中を、一度覗いてみたいものだな?」


 後頭部にあった手のひらがすっと離れれば、額もすっと離れていく。

 それはほんの数秒の出来事だった。


 けれど。たった数秒でも、マリアをますます動揺させるのにじゅうぶんだ。

 何をされたのかも良くわからぬままに心臓の鼓動は跳ね上がり、頭にどっと血が流れて顔中が火照るのがわかる。


「は……っ……」


 両手の指先で口元を押さえながら、何度も息を吸い込んだ。

 熱が上がった頬は今、林檎のように真っ赤だろう。


 そんなマリアをジルベルトは上機嫌で眺める。マリアの表情がころころと変わる様子を見て愉しんでいるのに違いない。


 そしてマリアは、ジルベルトの次の言葉にまたもや打ちのめされてしまうのだ。


「はっ、やはり愛らしいな!」


 秀麗な面輪をほころばせて涼やかに笑う。

 ジルベルトの心に巣食う黒い闇が、桜色の光に呑まれていく──ジルベルト自身が気付かぬうちに。


「見ていて飽きない」

「飽きるまで見られたら、困ります……」

「寝台でマリアの寝顔を見ていたら、知らぬ間に俺も眠っていた」


 ぼ!!

 林檎の頬が再加熱になる。


「ですから……! 昨夜は本当に、申し訳なかったと……っ」

「責めているんじゃなくて。それにさっきから何をそんなに謝っている?」


 アメジストの瞳が伏せられる、心からの自責の念を滲ませて。


「雇い主様を差し置いて眠ってしまいました。それに……あろうことか、雇い主様の寝台で眠りました」


 ジルベルトは目を丸くする。


「長椅子で先に寝たのは俺だし、『お茶役』は夜伽相手の寝台で眠るものだ。それにマリアとは雇用関係ではないよ」


「ぇ……。私はあなたに雇っていただいたから、皇城にいられるのですよね?」


「『お茶役』は皇宮の使用人ではない。内々に選ばれ、そういう事を専門にする者たちがいる。それに人を雇って給金を払うのは皇宮の家政事務官だ。

 マリアにはしばらく俺の『お茶役』を続けてもらうが、勿論、添い寝の他は何もしなくていい。俺が眠るとき、そばにいてくれればそれでいい。

 マリアは命を救ってくれた人で、今は俺の苦心を癒す人だ」


 ──せめて、君に皇太子だと知られるまでは。


 ジルベルトの『新たな苦心』をマリアは知るよしもない。


「ウェインでは、ただあなたのお世話をしただけです。私がそばにいる事であなたが眠れるとおっしゃるのなら、勿論お望み通りにいたします。ですが……添い寝、って……」


 ジルベルトははぐらかすようにふん、と微笑わらい、大皿の左右に並ぶカトラリーに長い指先を触れた。


「取り敢えず、食事を始めよう」

「ぇ……ぁ、はい」


 真っ白なクロスがぴしりと敷かれたテーブルの上には、いつの間にか色鮮やかなサラダと生ハムの前菜、刻まれたフライドオニオンが香りを添える玉子色のスープ、柔らかそうな丸いパンが湯気を立てている。


 そこにメイン料理を取り分けた給仕が大皿をことり、と置いた。絶妙な加減で赤身を残しながら焼かれた肉とマッシュルーム。

 甘酸っぱい香りが食欲を刺激する。大皿に添えられているのは甘めの赤ワインソースだろうか。


「マナーは気にせず、好きなように食べるといい」


 それはマリアの境遇を気遣っての言葉だったが── 。

 ジルベルトはこのあと、彼女の洗練されたとも言える食事の仕方やナプキン使いに目を見張る事になる。


 所狭しと並べられた美しい料理を前にマリアが呆気に取られていると、「冷めてしまうよ?」と促される。

 ジルベルトに続いて、マリアは出されたスープを顔が映るほどに磨かれた銀のスプーンでそっとすくい、口に運んだ。


 艶めく桜色の、ぷっくりと厚い唇が半開きになる。

 その隙間にスプーンが押し込まれ、喉の奥に玉子色の液体がゆっくりと流し込まれていく──。

 わきに立って見ていた侍従がごくりと喉を鳴らした。


「美味しい……。このスープ、すごく美味しいです!」

「そうか? それは良かった」


 マリアがふにゃりと口元を綻ばせるのを見てまた微笑んでしまうが、ジルベルトは先ほどから自身の頬が緩みっぱなしである事に気付く。


 ──こんな顔、フェルナンドには見せられんな。


 緩んだ頬を意図的に元に戻したジルベルトは、わずかな自責の念と得体の知れぬ恥じらいに駆られ、こほん、と小さく咳払いをした。





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