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ラムダの決意


「貴族出身の私たちだって、一糸たりともふれられるお方ではないのに。下女ふぜいが穢らわしい……!」


 二人の暴言のあとには、しばしの沈黙があった。

 ややあって、目を丸くしたマリアが言葉を継ぐ。


「あの……もう、よろしいしょうか?」


 単なる嫌がらせであっても敵意のやいばを向けてすごめば、マリアが泣き出すとでも思ったのだろうか。

 ぴくりとも眉を動かそうともしない皇太子のお茶役に、二人のメイドが焦りの色を滲ませる。


「は?!」


「私は、ひどい境遇からジルベルト様に救い出していただいた身でございます。その御恩を返すためにも、与えられたお仕事を精一杯こなしたい……ただ、それだけでございます。そそっかしくて失敗ばかりですが……早く慣れるように励みます」


 メイドたちを驚かせたのは、その後のマリアの仕草。


「急いでおりますので、失礼いたします」


 夜着の裾を摘み上げ、実に優雅な一礼をして見せたのだ──きちんと頭を下げる仕方も知らぬと踏んでいる下女がだ。


「……っ!」


 面と向かってみれば、化粧を施してもいないのにほんのり紅く頬を上気させた白い肌や、薔薇の花弁のような唇や──長い睫毛で縁取られたアーモンド型の、アメジストの瞳に光を宿した顔立ちは中々に愛らしい。


 腰まである長い髪を下ろし夜着の上に薄いガウンを羽織っただけのマリアだが、その佇まいは美しかった。髪結いをして着飾れば、豪華なドレスでさえ恥じらうだろう。


 メイド二人は言葉を失ってしまう。

 彼女たちにくるりと背を向けたマリアは、ぐ、と奥歯を噛み締めた。


 ──これくらい平気。悪態をかれることには慣れているもの。




「……あの子、本当に下女なの?」

「知らないわよ。居酒屋であの子の荷造りを手伝ったゼナから聞いただけなんだから」


 マリアの背中を唖然と見送ったメイドたちがこそこそと呟き、持ち場に戻ろうとした時だ。


「あなたがた。皇太子殿下のお茶役であるマリア様に暴言を吐くなど、良い度胸ですわね?」


 怒りを含んだ鋭利な声が、二人のメイドの背中を刺す。


「ラムダ……っ?!」


「すべからくご存知かとは思いますが。皇族方のお茶役というものは、ご側室やお妾様の将来をも見込まれる大切な御方。暴言を吐いて甚振いたぶるなど重罪に値します。

 それにマリア様に接する事を許されているのはこのわたくしだけです。首を刎ねられたくなければ、もう二度とマリア様にはお近づきになりませんように。

 今回だけは、あなたがた二人のお名前はわたくしの心の中にとどめておきます。ですが次に同じことがあれば、即座にフェリクス公爵様にお知らせ致します。他の方々にも、その様に伝えてくださいませ」


 弾かれたようにみるみる顔色を悪くするメイドたち。重い空気を肩で破ってきびすを返し、ラムダは颯爽と場を離れた。




 マリアの部屋の扉を叩けば、はい! と、明るい声が応える。

 ラムダは安堵の吐息を漏らす。心無い暴言を浴びせられたが、落ち込んでいる様子ではなさそうだ。


「おはようございます、マリア様。ラムダでございます」


 扉を開けて部屋に入れば、薄灰色の仔猫を抱いたマリアの溢れんばかりの笑顔に驚かされた。

 かがやく朝陽が差し込む部屋の中、嬉々として頬を綻ばせるマリアは光の妖精をまとうようだ。


 ──本当に。

 昨日、初めてお目にかかった時を思えば、湯浴みとお着替えだけで見違えられましたわ。


「おはようございます、ラムダさん! ジルの面倒を見て下さって有難うございます。一晩会えなかったので心配だったのですが、ジル、とっても元気です……!」


「ええ。先ほどもご飯をやりにお部屋に伺ったのですが、ジルはマリア様のお帰りをずっと待っていましたわ。なかなか扉の前を離れなくて」


「そうでしたか……」


 マリアは、さも愛おしげに仔猫の小さな頭に頬を擦り寄せる。


「ジル、私がいない間にをしなかった? 私も失敗しないように頑張るから……。私たち、ここを追い出されてしまったら、もう行くところがなくなってしまうのよ?」


「ご心配なさらずとも、そんなに簡単に追い出されたりしませんわ」


 皇太子ジルベルトは、これまで一度たりとも自らお茶役を選ばなかったと聞いている。『皇太子が目をかけている』なんて文言を耳にしたのも初めてだ。


 ラムダは知っている。

 このマリアという女性の存在が、ジルベルトにとってどれほどに稀有けうなものであるかと言う事を。


 ──だからこそ、守らなければならない。

 それがマリアの専属メイドを拝命した、自分の役目だと。


「有難うございます、ラムダさん」


 は、と我に返る。

 見れば柔らかく微笑むアメジストの瞳がラムダを見つめている。

 肘掛け椅子に腰をかけたマリアの膝の上で、華奢な白い手指が仔猫をあやしていた。


「私に優しく接してくださって。ジルの面倒を見てくださって」


「いいえ。それがわたくしの仕事ですから」


「湯殿で初めてお会いした時は、なんだかお疲れのご様子でしたから、少し心配だったのです。ラムダさんは私の事以外にもお仕事をされているのでしょう? 何か私に、お手伝いできることがあればと思って……」


「ご心配には及びません。いえ、疲れていたと言うか……」


 ラムダは、心の中でひとちる。


 ──これまでは、本気で仕事をする気持ちになれなかったと言うか。


「皇宮への出仕は父の身勝手な申し出なのです。父にすれば『可愛い子には旅をさせよ』と言う意図なのでしょうが」


「お優しいお父様。ラムダさんは、お父様の愛情をしっかりと受けていらっしゃるのですね」


 身寄りが無いと聞くマリアは、勿論父親もいないのだろう。

 心なしか表情を曇らせたマリアに、家族の話をしてしまったことをラムダは少し悔やんだ。


「昨日お話しましたように……わたくしは絵を描く事を好むので、世界の厳しさを学ぶよりも、本当はもっと絵の勉強がしたいのです。与えられた部屋は相部屋で、そこで描くのも難しいですし」


 ラムダは肩をすくめる。


「それなら、このお部屋で描いて下さい。ジルの面倒を見てくださる合間に、ここで……イーゼルを開いて……!」


「そんな、とんでもございませんわ。マリア様のお部屋です」

「ここなら誰に見られる事もありませんし、都合が良いのではないですか? それに、私っ、ラムダさんの絵を見てみたいわ」


 きらきらと瞳を輝かせるマリアに、うわべだけの社交辞令ではなく本心なのだとラムダは悟る。もしもラムダ自身に置き換えてみば、自室でメイドが絵を描く姿など想像もつかない。


「お気持ちはとても嬉しいのですが。イーゼルも画材も家に置いて出てしまったのです。相部屋で描けるものといえば、卓上での簡単な水彩画くらいですわ」


 この獅子宮殿に従事する他のメイドたちのように、疑問を抱いたのはラムダとて例外ではなかった。


 皇太子は旧来より、忍んで各国の視察に巡り歩いていると聞く。

 マリアとの関係性はその道中で生じたのだろう。だが皇太子ジルベルトともあろう者が何故、辺境地の居酒屋の下女をしていた女を特別に目にかけるのかと。


 まず、女性には事欠かぬはずだ。

 後宮には皇太子に見初みそめられたいと請い願う皇族や王族の見目麗しき姫たちが、『行儀見習い』と銘打って年中押しかけるのだから。


「そう……ですよね。大きな絵画でなくても良いのです。ラムダさんが描いた絵を、いつか私にも見せてくださいね」


 ストロベリーブロンドの髪に変わらず光の妖精をまとい、マリアの笑顔がかがやく。


 ──わたくしはまだマリア様の事を良く知らない。

 けれどこの人は、生来の下女ではないような気がする。

 わたくしの本能の声がそう告げている。


 どんな事情があってマリアが下女をしていたのかは知らぬが──その理由がわかる日も来るのだろうか。


 もっと知りたいと思うのは単なる興味本位なのか、それとも。

 もしかすると皇太子も、自分と似たような気持ちなのかも知れない。


「お支度をいたしましょう、マリア様。まずは湯浴みをなさいますよね?」


 湯浴みと聞いて、マリアの心がさざめき立つ。

 『お茶役』というとしてジルベルトと一夜を過ごしたと、ラムダは思っているに違いない。

 していないのに、頬がかぁっと熱くなって!


「湯浴みは、大丈夫です。ジルベルト様と一緒にお水を飲んだだけなので……っ」


 マリアの想像通り、ラムダが目を丸くしている。


「そ、それより……『お支度』とは、いったいなんの……?」




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