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王女リュシエンヌの行方


 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*



「いや……君が想像するよりもっと良い事だ、フェルナンド」


 執務室に現れた今朝のジルベルトは顔色が良く、口元に薄らと笑みを滲ませながら執務机の椅子に座する。

 対して皇太子に忠義を誓う従者フェルナンド子爵は不機嫌極まりなく、苛立ちを抑えながら冷ややかに主君を見遣った。


「何がどう良いとおっしゃるのか」

「久々に良く眠れた。マリアのお陰だ」


「私が想像するよりも良い事、とは。昨夜、あの娘と何をしていたと?」


 フェルナンドのしかめ面を見て、ジルベルトが言を継ぐ。


「なんだ、良く眠れたと言っているのに。不機嫌が治らぬな?」


 ジルベルトの目の前に分厚い書類の束を並べ置きながら、フェルナンドは精悍な眉を歪ませた。


「幼少の頃より長年お仕えしているが、あなたという方のお考えがいまだ読めない。大帝国の皇太子が政務を放り出してあのような僻地にまで直々に出向き、素性知れずの下女を皇城に連れ込んだ挙句。

 礼を尽くすと言いわけをして仕事を与えるのかと思えば……あろうことか皇太子の『お茶役』をさせるなど。あの娘に寵愛を与えて、あなたのめかけにでもなさるおつもりか」


「……は?」


 フェルナンドの長い悪態を聞き、そのにジルベルトはふはは! と、愉快そうに笑う。


「そんな事を想像していたのか、フェルナンド。昨日から機嫌が悪いのはその所為せいか? てっきり君に頼んだ『緘口令かんこうれい』の荷が重いのだろうと踏んでいたのだ。勘違いをするな、マリアは俺の恩人だ。恩を返すと言った俺が、恩人を捕って食うはずがなかろう!」


「我が主君の望む事ですから、あの娘に皇太子の身分を伏せておくための大掛かりな『隠蔽工作』などという無茶な特命も致し方ありません。

 しかしながら、皇太子であることをいつまでも隠し通せるとは思いません。あの娘が事実を知るのは時間の問題だ。それに」


 眉間の緊張を緩め、フェルナンドは真面目まじめ顔でニの句を継ぐ。


「あなた自身が初めて──望んだ『お茶役』だ。マリアとかいうあの娘をめかけにしたいと仰るのなら反対はしません。だがそれは、殿下がご自分の責務を果たされた上での事。下女の色香に溺れ、忘れたわけではありますまい」


「妾……? そんな事は先ずマリアが望まぬだろう。いや、俺が望まぬ」


「殿下が目を掛けて、あの娘が『お茶役』以上の感情を殿下に抱いたらどうするのです? あなたの恩人だと言うからには、これまでのように切り捨てる訳にはいかないでしょう」


 ジルベルトは、ふ、と小さく息を吐き、目蓋を伏せる。


「マリアに『お茶役』を命じるのは、マリアが俺を皇太子だと知るまでの僅かな時間だけだ。それにフェルナンド。断じて言うが、君が案じるような事には至るまい」


 冷徹なアイスブルーの瞳がかすかな悲哀の色を見せた。


 ──マリアは『冷酷皇太子』を、あれほどに恐れているのだから。


「皇太子だと知られた後は『お茶役』を解任する。だがマリアへの礼は尽くす。

 皇城内でも他であっても、マリアの望む待遇を与えてやってくれ。俺の気持ちを汲み取ってくれるならば、あとの事は君に任せる」


 マリアを手放すというジルベルトの思いがけない言葉に驚くも、フェルナンドの表情は苦いままだ。


「……よろしいのですか?」


「君の考えは分かっている。愚かな皇太子が下女にうつつを抜かし、シャルロワの王女探しをおろそかにするのではないかと案じているのだろう?」


 そこへノックの音もしないまま、不躾に開いた扉の先から飛び込む乾いた声。


「朝っぱらから何です? 二人して小難しい顔しちゃって。おぉっ、殿下は顔色良いですね。さては良く眠れたな…… ?! 殿下を癒す『お茶役』が見つかったのは喜ばしい事だ!」


 いつものお調子を撒き散らしながら、絶妙なタイミングで入室して来たのはジルベルトの有能な片腕であるフェリクス公爵だ。


 不機嫌な面輪を崩さぬまま、フェルナンドが問う。


「丁度良かった、フェリクス様。王女の顔を知る者の有力な情報を得たという、あれはどうなったのです?」


 フェリクスはつかつかと執務室を横切る。応接の為に置かれたソファに、まるで自分の持ち場のごとく腰を下ろすその小柄な肢体は、ジルベルトの着衣に似た漆黒の礼服をまとう。


「ああ。あんな噂に始めから期待などしてませんよ。報奨金という光源に群がる蛾が後を絶たない。

 シャルロワの蝶と真実は、闇の中に彷徨う……リュシエンヌ王女に仕えていた侍女が生存しているという噂もね」


 明るい栗色の髪は耳の下でまとまりなく跳ね、フェリクスという男を軽薄そうに見せている——が。

 きりり、と上がる眉の下には、猛獣のそれに似たヘーゼルの瞳が怜悧な二つの光を宿していた。


「どうせまたガセでしょう。残念、残念!」


 皇太子の有能な間諜スパイは、内心に渦を巻くを隠し、片手をひらひらさせてうそぶく。

 ジルベルトは『冷酷皇太子』の二つ名が示す通り、帝国に役立たぬものは容赦なく切り捨てるのだ。


「フェリクス、ふざけている場合ではない。シャルロワ城が陥落してから三年にもなるのだ。君も密偵を巡らせていながら未だ何の手がかりも掴めぬなど、情けないとは思わんのか」


 表情の柔らかさは崩さぬものの、フェリクスは心の内で怯んだ。

 ジルベルトの面輪が苛立ちで歪むのを、たとえフェリクス公といえども安易に見過ごせるものではない。


「言われなくてもわかってますよ。だが殿下、リュシエンヌ王女を探し出してどうするつもりなんです? 他の王族と同じように殺すのですか?」


 ジルベルトは虚空を仰いだ。

 その目には黄金の穀物を実らせる広大で美しい旧シャルロワの農地と、肥えた土を実直にくわで耕す者達を映す。


「我が帝国はシャルロワ国領を手中に収めた。だが旧シャルロワの民、つまりは国民の七割以上を占める農民たちは今もリュシエンヌ王女の生存を信じ、王女を求めている。

 本当の意味でのシャルロワの掌握は、彼ら農民の支持の掌握にかかっていると言ってもいい」


「ならば躊躇う理由は無い。王女を見つけ次第、殺してしまいましょう。帝国の繁栄を妨げる者の存在ならば、たとえ小娘一人であっても抹殺すべきだ」


 ジルベルトの低い声がフェリクスの耳朶じだを打つ。


「いや、殺さずに捕らえろ」

「は?! シャルロワの蝶を一生、籠の中にでも閉じ込めておくつもりですか」


「殺すよりも、もっと良い方法がある」


 ジルベルトは首から下がる彼の『王印』を取り出し、卓上の書類を始めた。そのまま無言で紙上の文言に目を通し、ぐ、と朱蝋に印を押しつける。


「リュシエンヌ王女を、俺の妃にする」


 刹那、時が止まったかのように思えた。フェリクスが驚愕に目を泳がせる。

 温度を感じさせぬジルベルトの声。鋭利に尖った眼光は手元の書類に向けられたままで、顔も上げずに紅い鷲の印影を紙に残す。


「……な、なるほど。農民たちの支持を得るために、王女の存在を帝国が利用する、と?」


 虚を突かれたようにフェリクスがフェルナンドを見遣るが、フェルナンドの翡翠の瞳は冷静そのものだ。


「殿下の策略を知っていたのか、フェルナンド?!」


 否定をしないところを見れば、フェルナンドは既に納得済みだったのだろう。フェリクスは及び腰だ。


「王女は殿下に親族全員を殺害されているのですよ?! 復讐心に駆られる事だってあり得る。もしも王女が、結婚を拒んだら……」


 ジルベルトが顔を上げることはない。

 薄青い瞳は冷徹な光を宿したまま──苛立ちを孕んだ声が、息を吐くように呟きながら低くなる。


「その時は、リュシエンヌ王女を殺すまでだ」




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