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皇太子の要求(2)

 ふ、と形の良い口元が微笑わらい、


「怖がったり緊張するさまを見せないと思えば。やはりその程度の理解だったか。『眠る前の話し相手』とは、言わばだ。マリアは王宮に仕えていたのだから、伽の意くらいはわかるな?」


 耳を疑った。

 青い瞳が悪戯に揺れて、ごく薄い絹の夜着の上にガウンを羽織っただけのマリアを揶揄からかうように見つめてくる。


「よ………………!」


 驚きが強すぎて、身体が岩のようにこわばっていく。


 ──夜伽よとぎって……高貴な方々の、をするアレのこと………!?


 ジルベルトと一糸まとわず身体を重ねる場面をいやでも想像してしまう。それは初心のマリアには、あまりに刺激が強すぎて──。


 心身ともに固まって岩となったマリアは、爆風に煽られ頭から順に砕け散っていくという妄想にとらわれた。


「だが安心せよ。それはマリアを俺の寝所に寄越すための口実だ。命の恩人のマリアにそんなものは望んでいない」


「こ……口、実? ……は…ぁ」


 粉で散ったら、今度は安堵と言う名の接着剤で固められて。マリアは開いた口をぱくぱくさせたまま、次の言葉が出てこない。


 ──まさかとは思いましたけど……とにかく、良かった……!


 冷静になれば、鶏がらのように痩せたマリアの身体など味わうべくもない。

 望むものは何だって手に入るであろうジルベルトが、わざわざ鶏がらを所望するはずがないのだ。


「そこでだ。『眠る前の話し相手』と称して、マリアが望む労働の代わりに俺の要求を聞き入れてくれないか?」


「はい、勿論です。私にできることなら、何なりと申し付けてくださいませ……!」


 マリアは笑顔で応じる。夜伽をすることに比べれば、他の仕事など容易たやすいものだ。


「もう随分前から不眠が続いていてね。ひどい時は一睡も出来ず朝を迎えることもある。目を閉じても浅い眠りに苛まれ、同じような悪夢を見るのだ」


 睫毛を伏せたジルベルトの脳裏に浮かぶのは──。

 紅い血の海と、手を掛けた命の断末魔。ジルベルトを嘲り罵る言葉と、鼓膜を裂くような叫び声。


 グラスに残った液体を飲み干し、二杯目をなみなみと注いだジルベルトは、その半分を一気に喉元に流し入れた。


「眠れないのはとてもお辛い事です。だからと言って……そんなふうに強引にお酒に頼るというのはっ、身体によくありません」


「俺の身を案じてくれるのだな」

「当たり前です。あなたは私の……た、……」


「?」


 ──大切なひとです。


「あ、いえ……その……っ。私とジルを、あのお店から、た、助け出して下さったので、言葉では言い尽くせないほど感謝しているのです」


「ならば遠慮をせずに言う。俺を救うと思って、当面のあいだ寝入り端にマリアの膝を借りたいのだが、かまわないか?」


「私の、膝、ですか?」

「ウェインの地下牢で……。マリアの膝の上ではよく眠れたのだ。この寝所でも眠る癖が付けば、不眠を克服できるような気がしてな」


 ──え! 膝を借りるって、お膝枕──?! 


「そんな事で良いのなら……もちろん、協力させていただきますが……っ」


 不眠を治したいと訴える真剣なジルベルトに邪な下心など無いのはわかっている。ジルベルトを過剰に意識して、恥ずかしがっているのはマリアだ。


 ジルベルトの視線がマリアの膝に向けられる。


「も……もう、お休みになられますか?」 


 大きな身体がぎしりとソファの座面に沈む。数秒後には、マリアの膝はジルベルトの重量のある後頭部を支えていた。

 視線を落とせばジルベルトの秀麗な面輪に見つめられ、マリアの心臓はどくんどくんと落ち着かない。


 ──下からそんなに、見られてはっっ


 まるで無垢な子どもが珍しいものを初めて見るように、ジルベルトはマリアから視線を離さない。


 すっと上がる逞しい腕。筋張った手の甲がマリアの頬をかする。


「本当に見違えたな。肌も綺麗だ」

「私なんて綺麗なはずがありませんっ……! 揶揄からかうのは、もうよしてください」


 ふん、と鼻を鳴らしたジルベルトの親指が、マリアの頬を滑る。


「ああ、揶揄からかっている。だから俺の言うことは気にするな。さらっと流せ」


 くすりと笑って、ジルベルトはマリアに背を向ける。そして小さな子どもがするように膝を抱え、マリアの膝枕に甘んじながら横寝の体勢を取った。


 ──牢屋はずっと暗かったし、ジルベルトは怪我のせいで朦朧としていたもの。こんなにはっきりと意識があるのに、お膝枕だなんて……っっ。


 しばらくすると、呼吸にあわせて上下する肩の動きがゆっくりになった。


「ジルベルトさま……もぅ、眠ったのですか?」


 こそ、と問いかけると。

 マリアに背を向けたままのジルベルトが、


「敬称は要らぬと言わなかったか?」

「っ、でもやっぱり、目上の方を呼び捨てにするのは抵抗があって」


「呼んでいればそのうちに慣れる。あぁ、やはりは気持ちいいな……」


 ふぅ、とジルベルトが深く呼吸をする。遠慮がちにマリアが覗き込めば、翼の睫毛はさも心地よさそうに閉じられていた。


「お……お布団の中に、入らないと。ここで眠ってしまわれては風邪を引きます」


「そうだな。マリアを寝台に運んで、共に布団に入るか」

「ですから……! 揶揄わないでくださいっ」

「ふふ。流せと言ったろう?」


 ──ただでさえ心臓がばくばくして壊れそうなのに。

 毎夜こんな調子では……私の心臓、いつまで持つかしら!


 ジルベルトの呼吸が次第に深く、ゆっくりになっていく。

 上下する肩を見守っていると、そのうち深い呼吸は静かな寝息に変わった。


 ──待って……本当に、眠って?!


 そうっと薄灰色の髪にふれてみると、まだ少し濡れていた。

 このままではほんとうに風邪を引きそうだと、手持ち無沙汰のマリアは落ち着かない。


 膝の上で眠るジルベルトを起こさぬよう、ソファの肘掛けに掛けられたブランケットをおもむろに広げ、ジルベルトの半身にかぶせた。


 ──いつまでこうしていれば……。


 これがマリアの『仕事』だとすれば、ソファで眠るジルベルトを放り出して勝手に帰るわけにも行かぬだろう。


 成人男性の頭部を乗せているのだ、膝が次第に痺れてくる。

 小一時間ほど耐えたが、いよいよ限界が来てしまう。起こさぬように気遣いながらジルベルトの頭部を膝からそっと下ろし、頭の下にクッションを充てがった。


 ──不眠だなんて思えないほど、とてもよく眠っているわ。


「ひどい傷が治って、こんなふうに元気になって。本当に、良かったです……」


 今日一日で、本当に色々な事がありすぎた。

 心も身体も疲れ果てている。


 ジルベルトの無防備な寝顔を眺めていると、目蓋まぶたがとろりと落ちていく。

 まどろみは、ソファに預けたマリアの身体ごと、深い海の底に沈むように堕ちて────。



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