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皇太子の要求(1)


 ────ン?!


 ジルベルトは慌てて双扉に両手を掛け、力を込めて引き開けた。

 見下ろせば鮮やかな薄桃色の髪色が視界に飛び込んでくる。緩やかにウエーブがかった長い髪が、羊毛をふわりと広げたようにティーワゴンの上に覆いかぶさっていた。


「どうした、大丈夫か?!」


 顔を上げた少女の長いまつ毛に縁取られたアメジストの瞳と目が合って、ジルベルトはどきりと息を呑む──少女の大きな瞳と薔薇の花弁の唇が雪のごとく白い肌に張りついて、あまりにも鮮やかに見えたのだ。


「ジルベルト……さま」


 目の前で見上げる少女は紛れもなくマリアに違いない。

 けれど、薄汚れていた肌も、頭のてっぺんに引っ詰められていた乱れ髪も。ジルベルトが知る下働きをしていた頃のマリアとは判然と違っている。髪もこんなにたっぷりと長かったのかと目を見張るほどだ。


「もっ、申し訳ございません! すぐに淹れ直して参ります」


 薄い絹の夜着の上に羽織った丈長のガウン。その袖口から伸びる華奢な手が、横倒しになって注ぎ口から湯を流すティーポットを慌てて元の位置に戻そうとした。


「熱っ」 熱湯にふれたのか、反射的に宙を泳いだ指先をジルベルトの大きな手が掴む。


「見せて。……少し赤くなっているな」


 ジルベルトの自室に続く廊下の入り口に立つ、衛兵二人がちらりと遠慮がちにこちらの様子を伺っている。そそっかしいメイドが何をしでかしたのかと気になっているのだろう。


「とにかく。部屋に入って手当をしよう」

「軽い火傷やけどです! こんなの、平気ですから……っ」


 にわかに恥ずかしくなって、ひゅいと掴まれた指先を引っ込める。が、依然としてジルベルトは放してくれないようだ。


 扉の前のティーワゴンをそのままに。

 掴まれた手を引かれるようにして、部屋の中へと引っぱり込まれてしまう。その勢いで流れた風からは、ほのかに甘く爽やか石鹸の香りがした。


「ぁ……あの……!」


 そのまま部屋の奥の窓際まで連れて行かれ、やっと指先が開放されたと思えば、窓際に置かれた大きなソファに座れと促された。

 おずおずと腰を下ろせば、背もたれにあるふかふかのクッションがマリアの腰を包み込む。


 こんなに上質な家具に座ったのは初めてだ。

 マリアが王女と呼ばれていた頃でさえ、離塔で与えられていた部屋のしつらえはとても質素なものだったから。


 ジルベルトはどこからか小箱を持ってくると、銀色の小さな入れ物と包帯を取り出した。マリアの隣に腰をかけ、四角い銀色のケースをぱかりと開く。


「帝都一の名医が練りあげた軟膏だ。切り傷や火傷に良く効く」


 マリアの指先を取り上げ、手際よく指先に薬を塗るジルベルトに呆然と見惚れてしまう。頭の中では、本当なら口に出して言うべき言葉がぐるぐると回っていた。


 ──自分でできるって早く言わなくちゃ……。


 なのにされるがままになってしまうのは。

 かいがいしく動く繊細な指の一本一本がとても綺麗だったのと、マリアの火傷を見つめる真摯な青い面差しに見入ってしまったからだ。


 ──ジルベルトの瞳は不思議な色。氷のように冷たく見えたり、光が差し込む海のように優しく見えたり。


 清潔なシャツ一枚を羽織り、ブレーを履いただけの格好は湯浴み上がりなのだろう。濡れ髪を拭いてざっと整えただけの無造作な様相も、マリアの初心な乙女心をざわつかせた。


 ──こんなに綺麗なんだもの。ジルベルトは女性にモテるでしょうね?


「見違えたな。まるで別人だ」


 形の良い唇から唐突に発せられた言葉に、はっと我に返る。


「……ぇ」

「さて、これで良し。万能に効く薬だ、明日には治っているだろう」


 きちんと包帯が巻かれたマリアの指先がようやく解放される。


「すっ、すみません、私ったらぼうっとしちゃって……全部お任せしてしまって……! 自分でも出来ましたのに。それに、お、お茶はっ……?! 私、お茶を淹れ直さなくちゃ……!」


 わたわた取り乱すマリアを見て、ジルベルトは青い目を細めてくつりと微笑わらう。


「お茶はもう良い。代わりに晩酌に付き合ってもらおうか?」

「へ……」


 ジルベルトはすっとソファを立上がり、マホガニーのキャビネットを開く。グラスを二客と酒瓶を一本──見るからに高価そうなエチケットが貼られている──とを取り出して、小卓に並べた。


「お、お酒?!」

「苦手なら無理に飲まなくてもいい。水を持って来よう」

「お水なら、私が……っ」


 慌てたマリアが立ちあがろうとするけれど、大きな手のひらで止められた。

 ジルベルトが再びソファを離れる間も、マリアの心臓はどくどくと胸を叩き、見惚れるほどに秀麗な『無精髭の無い』想い人に気持ちが持って行かれそうになる。


 ジルベルトは自身のワイングラスに琥珀色の液体を注ぎ、マリアのグラスにはピッチャーの水を注ぐ。

 促されるまま控え目に乾杯したあと、ジルベルトは機嫌良くグラスを傾けた。


「マリアは、『眠る前の話し相手』の意味を理解しているか?」

「ぇ……ぁ……はい。何となくは……」


「では。話し相手を望まれた者の役割とは、何だと思う?」

「役割、でしょうか? えっと……皇族や貴族の方達に、お休みになる前に美味しいお茶をお淹れして、ゆっくりと眠っていただくお手伝いをすることです」


「それだけ?」

「え……」

「他には?」


「他にも、何かお役目が……?」



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