湯殿脇に吊られたカーテンからひょんと顔を覗かせたのは、背高い一人の女性。
白と黒のいわゆるメイド服に身を包み、ブルーヴァイオレッドの髪をメイドキャップの中に仕舞いこんでいる──マリアと同じくらいの年齢の若いメイドだ。
「……マリア様ですね? お湯浴み中、失礼いたします」
虚を突かれたマリアが湯船の中でわたわたしていると。
カーテン脇の小卓に着替えを置いたそのメイドが、湯殿で目を丸くするマリアをちらりと見つめる。
「ジルベルト様のお好みのタイプ。想像とはちょと違ったけれど、お顔立ちの愛らしい方ではありますね」
「……?!」
女性同士だといえども初対面なのだ。突然の侵入者に、マリアは湯船の中で胸元を掻き抱く。
「わたくし、フェリクス公爵様よりマリア様の専属メイドを命じられました
精一杯、と言う割には。
ラムダと名乗るメイドは見るからに疲労ぎみで、猫背がかった背中、目の下にはうっすらとクマを覗かせる。
「……手伝っていただかなくても、自分で、できますから……」
「いいえ、遠慮されなくてもよろしいのですよ? 今そちらに伺います──」
のらり、と立ち上がったラムダが、石鹸とタオルを手にして浴室の床に一歩踏み出した時だ。
「ひゃっ」
疲労を滲ませた青白い顔立ちがふらりとよろめき、ラムダの長い脚がバランスを崩して大理石の床にとすんと尻餅をつく。
「ら、ラムダさん……! 平気ですか?!」
驚いたマリアが湯殿を飛び上がれば、
「平気です、申し訳ありません……私、下働きを始めてから失敗続きで」
顔を上げたラムダが、マリアの上半身をまじまじと正視した。
「随分と……その、痩せていらっしゃいますね? まずはたくさんお食事を召し上がってくださいませ」
マリアは、ちゃぽん。
痩せていることを指摘された恥ずかしさで赤面し、湯船に隠れる。
「あの、マリア『様』は、やめていただきたいです。私もここで働かせていただくつもりですから……」
──働くって言っても、お仕事とは言えないほどの内容ですが…っ。
「それに私、お付きの方をわざわざ寄越していただくような者ではありません。昼間に時間があるのなら、どんなことでもしますから、できれば働かせていただきたいのですが……」
「いいえ、そのようなわけには参りません。ジルベルト様は、極力あなた様を皇城内で人の目につかせぬようにと仰いました。その命に従うならば、宮での労働などとんでもない事でございます。それに。あなた様はジルベルト様が目をかけておられる大切な御方。わたくしはこのまま、マリア様、と呼ばせていただきます」
ラムダは淡々と告げるが、マリアはたじたじとなる。
床に足を取られるほどに疲れているようだが、ラムダが時折見せる凛とした眼光からは彼女の意志の強さが窺える。
「では、髪は、わたくしが。ふれてもよろしいでしょうか?」
湯殿に一歩近づくラムダは先ほどまでのぼやんとした表情に変わり、マリアを労わるような、穏やかなほほえみを浮かべている。
「は……い」
とうとう観念をして湯船に浸かるマリアの髪に、ラムダは櫛でゆっくりと、薔薇の香りを付けた香油を馴染ませた。
「とても綺麗ですね。マリア様のこの髪色、初めて拝見いたしました。深みがあって……繊細なお色。高価な絵の具を使ってでも、なかなか表現のできない色味ですわ」
「絵の具……。ラムダさんは、絵画に興味があるのですか?」
「時間を見つけて時々描きます」
「絵が描けるなんて羨ましいわ。私の絵は子供じみた落書きだから」
マリアは頬の緊張を緩め、くしゃり、と無邪気な笑顔を浮かべてみせた。浮き出した鎖骨に、抜けるような白い肌を彩るストロベリーブロンドの塗れ髪が落ちかかる。
「マリア様はとても華奢でいらっしゃいますが、もう少しふっくらされれば本来の美貌を取り戻されます。わたくしには、わかります。いつかマリア様の絵姿を、このわたくしに書かせてくださいませんか?」
「そんな、私なんて、絵のモデルにはなれません。いくらラムダさんの絵が上手でも、私がモデルではきっと貧相な絵になってしまうわ……」
「ですから、今は。しっかりとお食事を召し上がってくださいませ。まずは滋養を付けるところから始めましょう。マリア様は本来、人を魅了する容姿をお持ちのはずです。そして素晴らしいモデルになる素質も……!」
「恥ずかしいです、私……本当に、そんな風に言っていただけるほどの者では……」
「少しふっくらとされれば、ジルベルト様もお喜びになるのでは?」
「…ぇ…?」
「ふふっ。どちらかと言えば男性は、痩せている女性よりも適度にふっくらしている女性に惹かれると思うのです。わたくしの持論ですが」
「そ、そんなものかしら……」
「そんなものですよ?」
「それじゃ、もう少し健康的になれば……ジルベルトに……私……」
マリアがジルベルトに
「マリア様に夢中になられるはずです」
「む、夢中にだなんて!? 望んでいません、口に出すのも烏滸がましい事です!」
「烏滸がましい……?」
「ええ、烏滸がましいわ。所詮私は下働きの女ですから」
「今は違いますよね?」
「し、下働きではないですけれど……。お仕事をさせていただく使用人が、持って許されるような気持ちではありません」
「使用、人」
このマリアという人はすこぶる自己評価の低い方だと、ラムダは丸い
「でもっ……目の端に、ほんの少しでも、映れるのなら……。今よりも少しだけ、自分を整え直したいです」
ジルベルトへの想いのこもった言葉を少しずつ紡ぎながら、マリアは俯いて真っ紅に頬を染めている。そんなマリアが、ラムダの濃紫色の瞳にはいじましく映った。
「マリア様。今宵はジルベルト様のお部屋に伺う初めての夜です。念入りに身支度をいたしましょう。わたくしが精一杯、お手伝いをいたしますから……!」
土気色だったラムダの顔色がにわかに鮮やかさを取り戻す。深紫の丸い瞳が瞬く間に潤んだ。
けれどマリアには、ラムダが張り切る理由がわからない。
──えと、念入りに身支度……? お話し相手の仕事というのは、おやすみ前のお茶汲み係のことですよね??
華奢な首を傾げて、マリアは丸い目を更にきょとんと丸くした。
*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
「マリア……?」
疲労の色を滲ませたジルベルトが自室に戻ったとき、そこにマリアの姿はなく。
──まだ来ていないのか。
ほうっと息を吐き、窓際のソファにどかりと身体を沈め、じんと痛む目頭を指先で抑える。
二日ほど皇城を留守にしただけで政務が滞り、この数時間はおそろしく慌ただしかった。
誰か代わりになる者がいればジルベルトの苦心も少しは和らぐのだろうが、残念ながら国政を動かす『王印』を持つ事を許された者は、この世界で英俊豪傑な皇太子ジルベルト・クローヴィスただ一人だ。
重い身体をソファから引き剥がし、湯殿に向かう。
一般的に頻繁に湯浴みをする者は少ないようだが、ジルベルトは毎夜の湯浴みを好んだ。
浴槽に身を沈めて目を瞑り、あたたかな湯気にゆったりと包まれていると、日々の苦悩や疲労が真白な極小の水滴となって立ち昇ってゆく。
──こうしている間にマリアが自室の扉を叩くかも知れない。
ふと思いがよぎり、手短に済ませようと、秀麗な面輪に掛かる塗れ髪を掻き上げる。
ざっと湯浴みを終え、身支度を整えたジルベルトが部屋に戻った時。
扉の外で、がちゃり! 陶器の食器同士がぶつかり合う何やら物騒な音が鼓膜を揺さぶった。
「きゃっ」
ノック音の代わりに聞き覚えのある愛らしい声が自室の扉を叩く。続いて、がちゃがちゃ! と、けたたましい音。
────ン?!
ジルベルトは慌てて双扉に両手を掛け、力を込めて引き開けた。