「こ、皇城って……。皇城には、皇太子殿下もいらっしゃるのですよね……?!」
「え……? ああ、そうだな。それは、いるよ」
マリアの口から突然に『皇太子』という文言が出たので、ジルベルトは驚いてしまう。背中を緊張させて青ざめたマリアがうつむくのを見て、
「マリアも皆と同じように、皇太子が怖いのか……?」
──やはりマリアも、俺の『冷酷皇太子』の二つ名を知っていたのだな。
「怖いです……。とても……っ。出来れば皇太子殿下の目の端にも入りたくありません……!」
ジルベルトの心が折れる。マリアの手指を握りしめていた大きな手のひらが、すっと力を失った。
──マリアはそこまで怖がっているのか。
皇太子の目の端にさえ入りたくない。そう言ったマリアの真正面にいるのは、紛れもなく帝国の皇太子ジルベルト。そしてマリアはそのことを知らないのだ。
「すみませんっ……私、馬車がどこに向かっているのかを知らなかったものですから……。てっきり、あなたのお屋敷かどこかに連れて行ってもらって、そこで働かせていただけるのかと……そう思っていたので……っ」
ジルベルトは形良い眉をぎゅっと寄せ、焦りの色を滲ませる。
「聞いてもよいか。マリアはなぜ、皇太子がそれほどに怖いのだ?」
「そ……っ、それ、は……」
マリアの方も激しく戸惑っていた。ジルベルトの戸惑いとは、全く違った意味合いで。
マリアにとって、シャルロワ国を滅亡に追いやったのがアスガルト帝国であって、帝国軍の筆頭が世に言われる『冷酷皇太子』だ。
──シャルロワの王女がただひとりで生き残り、雲隠れをしていることは皇太子も把握しているはず。もしも見つかれば、皆と同じように私も殺されてしまう……!
ジルベルトが憂慮する『冷酷皇太子』たる所以が二人の兄殺しだと言うことは、マリアは知らぬ事実である。
「皇城に行くのは、嫌か?」
マリアはぎゅっと唇を強く引き結ぶ。
「……嫌……です」
「それは困ったな。俺は、皇城で生活をしている。マリアの面倒を見てやりたいと思えば、それは皇城の中でだ」
──後宮、離宮もあるにはあるが、あそこは女同士の黒い争いに塗れている。マリアをそんな場所に置くわけにはいかぬ。
ジルベルトは思案を巡らせる。
「マリアが嫌がるのは、皇太子に会いたくないからか? それとも何か別の理由があるからなのか?」
「いいぇ……他に理由はありません。皇城に行くこと自体というよりも……私はっ、こ……皇太子殿下に遭遇してしまうのが……どうしても、怖いのです」
うつむいて不安いっぱいに揺れるマリアの伏せた眼差しを見た途端、ジルベルトの胸の奥がしめつけられたように痛くなる。
「あ……っ、でも、もしも皇城で下働きをさせていただくだけなら、下働きの者が皇太子殿下にお目にかかることなんて、まずありませんよね……?!」
──マリアはこの先に向かう場所で、働くするつもりだったのか。
アメジストの瞳で訴えかけるように、マリアがジルベルトの面輪を見上げる。そのあと、慈愛に満ちた眼差しを膝の上ですよすよ眠る仔猫に移した。
「ここであなたの馬車を放り出されてしまったら、私は、行くあてがありません。働く場所を見つけようにも、ジルベルト……ぁ、仔猫のジルが一緒だと、そう簡単ではありません」
眉根をわずかに寄せたまま、マリアは再びジルベルトを見上げる。笑みを湛えた唇は紅を差していないはずなのに、薔薇の花弁のように鮮やかだ。
「ですから、もしも皇城で働かせていただけるなら、それはとても有難い事です。あなたには、本当に感謝しています……ジルベルトっ」
不意に名を呼ばれたジルベルトが虚を突かれた顔になる。
ジルベルトの
途端。ジルベルトになんとも切ない気持ちが押し寄せる。
彼女の境遇を不憫に思う同情心からそうなるのか、年頃の女性に初めて呼ばれた名の響きの嬉しい違和感なのか、それとも。
マリアは過酷な環境で下働きをしていた女だ。
服は汚れ、艶を失った髪はひどく乱れていて、折角の愛らしい顔立ちが台無しになっている。身体は痩せこけて鶏がらのよう。男が
──なのになぜ、俺はこの娘に惹かれるのだ……?