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戸惑い



「あの……そのっ……。この子の瞳の色が、あなたと同じ薄いブルーだからですっ」


 ジルベルトは形の良い眉をひそめて心持ち首を傾げる。


「……それだけ?」

「それだけです!」


 恥ずかしさで、マリアはもじもじとする。


「なんだ、そうなのか……」


 マリアにいったいどんな答えを期待していたのだろう? ジルベルトはどこか不満そうに、抱き上げた仔猫と鼻を寄せあっている。


 本当は、仔猫の目の色が似ていただけではない。外見も性格もジルベルトに似た仔猫を、もう会えないかも知れないと思うジルベルトに重ね、ジルベルトの面影に想いを馳せていたのだから。


 そわそわと落ち着かないマリアの様子を心配でもしたのか、ジルベルトの手の中の仔猫が「にゃー」と小声で鳴いた。


「俺は……嬉しい驚きだったよ。猫の名付けの事もだが、ジルベルトという名を、君が覚えていてくれたのだと」


 マリアは赤くなった頬を隠すようにうつむいた。


「当たり前です。忘れるはずが、ありません……」


 思わず口を突いて出てしまった本音に、どきりとする。

 は! と見遣れば、案の定ジルベルトが仔猫の被毛の向こうで青い目を丸くしている。仔猫も同じように青い目を丸くしていた。


「ぁ……。だっ、だって……あんな事があったのですよ……? 忘れるはずが、ないです……」


 マリアは、どくどくと鳴る心臓の音がジルベルトに聞こえやしないかと、照れ隠しに必死だ。

 だがそんなマリアの気持ちを察するはずもなく、再びうつむいてしまったマリアを眺め、ジルベルトは嘆息する。


 ──俺を助けた所為せいで、マリアはウェインの城を追い出されたのだ。俺のことを快く思っているはずがない。


「そうだな。マリアがあの店で辛い想いをする原因を作ったのは俺なのだから。忘れたくとも、忘れようがないだろうな……」


 ジルベルトの端正な面輪に明らかな落胆が見え、マリアにはその落胆がどうしてなのかわからず、すっかり戸惑ってしまう。


「いいえ、決してそういう意味ではっ。お城を出てから、辛くなかったと言えば嘘になります。でも……っ。あなたはちゃんと私とジルベルトを救いに来てくださいました。私……これでもすごく、嬉しいのです……! ジルベルトだって、きっと喜んでいますっ」


 必死に言い募ると、ジルベルトが虚を突かれた顔をした。かと思うと、ふ、と吐息とともに口元を緩める。


「うむ……ジルベルト、か。その名はやはり紛らわしいな。マリアに呼ばれれば、何だかよくわからんが気持ちが湧いてしまう」


「おかしな気持ち、ですか?」

「ん……、何というか。立場上、名前で呼ばれることが殆ど無いからかも知れないな。慣れていないのもあるが……」


 ジルベルトは仔猫をマリアに返し、足を組み直して膝の上に肩肘をつく。ジルベルトの長い脚は、狭い馬車の椅子と椅子の間ですこぶる窮屈そうだ。マリアの足に接触せぬようにしようとすれば余計に。


「マリアに名を呼ばれると、なんというか、胸の内側がくすぐったい」

「くすぐったいだなんて、そっ、そんな気持ちにさせてしまうのは良くありません! 仔猫の名前は……ジルっ。やっぱり、ジルにします! ジルには、少し慣れてもらう必要がありますが……もう紛らわしくないですし、あなたを不快な気持ちにさせてしまうことも、ありませんからっ」


「にゃー」


 頭の良い仔猫は、まるでマリアの意図を汲んだかのようにに小さく鳴いた。

 ジルベルトに散々あやされて満足したのか、マリアの膝の上でおとなしく微睡まどろみかけている。


「仔猫の名は、ジルに変えてもよい。だが……」


 逞しい腕がすっと伸びて、マリアの手がジルベルトの大きな手のひらにさらわれる。そのまま形の整ったジルベルトの口元に持っていかれたかと思えば、手の甲にそっとくちづけられた。


「ひゃあっ!」


 反動で腕に力をこめて手を引っ込めようとするが、マリアの指先をしっかりと包み込んだジルベルトの手のひらがそれを許さない。


「不快じゃない。むしろマリアには、ジルベルトの名で呼んでほしい」

「で……でもっ、私、ウェインではあなたのお名前を呼び捨てにしたと……それは、とても重い罪だと言われました」


 ジルベルトが呆れたように鼻を鳴らす。


「よいか。これからマリアが俺を呼ぶ時は、ジルベルトだ。敬称も要らぬ。この先、誰に何を言われようがそれをやめる必要はない。、許す」


「でっ、でもっっ。きっとまた誰かに不敬だと叱られます」

「俺が許すと言ったのだ。マリアを不敬に問うなど、誰であっても許さぬ」


 マリア──。


 耳朶をくすぐるような甘い声で、もう一度、名前を呼ばれた。

 マリアの華奢な手は、ジルベルトの筋張った大きな手のひらに強く掴まれたままだ。


 ジルベルトの秀麗な面差しにゆるやかな笑みが灯り、マリアを見つめるアイスブルーの瞳が優しく揺れている。


「マリアは俺の命を救ったのだ。俺の命の恩人を蔑視や軽視するような言動は、誰であっても許さぬ。だから安心して、皇城で過ごすといい」


 不意打ちのように届いた、思いもよらぬ言葉にマリアは愕然とする。ジルベルトの甘い言葉の余韻も吹き飛んでしまうほどに。


 ──皇、城。


 今のは聞き間違いではなかろうか。そういえばこの馬車がいったいどこに向かっているのかを、誰にも問うた事はない。


「今……なんとおっしゃいましたか」

「?」

「馬車は、どこに向かっていると……」

「顔色が良くないな。どうした、具合でも悪くなったのか?」


 ジルベルトに掴まれた指先が、痛いほどの熱に包まれる。マリアを繋ぎとめようとするかのように、筋張った手のひらにぎゅっと力が込められた。






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