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『君には本当に申し訳の立たない事をしてしまったと思っている』
謝罪の為に皇城を訪れたウェインの宰相ロベルト・ヴァルドゥは、ジルベルトに深々と頭をさげた。
謝罪をする代わりにとマリアの居場所を問い詰めたが、ロベルトは追放されたメイドの行方を知らないと言いはる。
ロベルトの虚言かとも思ったがどうやらそうではなさそうで、マリアの居場所を知るウェインのメイド長からジルベルトが直接話を聞き出すまでに時間を要してしまった。
「にゃー」
六人乗りの、広々とした馬車の車中に揺られる二人と一匹。
マリアの膝の上の仔猫は落ち着かず、身体をよじらせたりアクビを繰り返したりしている。
彼の向かい側に座るマリアは身体をこわばらせ、ジルベルトの馬車に乗せられてからずっと静かにうつむいたままだ。
──やはり驚かせてしまっただろうか?
ウェインの牢では凶悪犯としてマリアと関わり、無実を証明できぬまま死にかけるという醜態まで晒してしまった。結果的にマリアがウェイン城を追われるきっかけとなった男が突然目の前に現れたのだから、驚きや戸惑いに苛まれないはずがない。
その男にいきなり荷造りをさせられた挙句、奉公先を半ば強引に連れ出されたのだ。言葉を失うのも無理はない。
そしてジルベルトは、まだマリアに自分の正体を明かしていない。
──やはり皇太子だと告げるのはまだだ。
マリアに恐怖心を抱かせるわけにはいかない。
──ただでさえ俺は兄殺しの『冷酷皇太子』だと世に知れ渡っているのだから。
皇太子だと明かせばマリアを怖がらせる——ジルベルトがそう思う最上の理由はそこにあった。
「……マリア」
組んだ膝の上に片肘をつき、向かい側のマリアを見つめていたジルベルトがようやく口火を切る。
やっと探しあてた天使は、汚れた作業着を身につけ、簡単にまとめただけの濡れ髪は乱れきっている。
もともと華奢だった青白い手首は骨張り、牢の中で見た時よりも痩せていて身体は鶏がらのようだ。
──ろくに食事も与えられず、よほど酷い扱いをされていたのだな……。
その不憫さを思えば、もっと早く迎えに来てやりたかったと心が
『ウェインに貢献しながら追放などという処遇を受けたのです。あの娘にこの先も危害が及ばないとは限りません。いくら皇太子様が探されているとしても、私が彼女の居場所をお伝えすることはないでしょう』
メイド長はそう言って固く口を閉ざし、ウェイン城から去るマリアを乗せた馬車の御者は行方知れず……捜索は行き詰まった。
胸の傷が塞がったばかりだというのにウェインまで直々に足を運び、「世話になり命を救ってもらった。マリアに恩返しをしたい」と頭を下げる皇太子の真摯な態度と熱意にメイド長が折れ、西の砦近くの居酒屋だと知らされたのは十日ほど前のことだ。
──君を見つけ出すのに、中々苦労をしたよ。
ようやくマリアを手の内におさめたジルベルトの秀麗な面輪に安堵の笑みが漏れる。
「先ずは礼を言おう。君がいなければ俺はあの日のうちに死んでいた。命の恩人の君に、これから精一杯の礼儀を尽くしたい」
おそるおそる顔を上げたマリアの、アメジストの瞳は戸惑いと不安が滲んでいる。ジルベルトにはそう見えた。
「この状況に君が驚き、戸惑っているのはわかる。だが何か話してくれないと、俺も戸惑ってしまうよ?」
きゅっと眉根を寄せたまま、マリアが意を決したように息を吸う。
「私は当たり前のことをしただけです、お礼なんて望んでいません。それより、あなたは本当に……牢屋にいた、あの人なんですよね……?」
「ン?」
「あの時とは、その……あまりにも
マリアは青年の漆黒の礼服に目を移す。
光沢のある上質そうな生地。所どころ銀糸で繊細な刺繍が施されたそれは、間違いなく上級の貴族が身にまとうのに相応しい代物だ。
「あれは酷かったからね。髪を切ったし髭も剃ってしまったが、あの時君が救ってくれた囚人、ジルベルトだ」
「ジル、ベルト……」
「にゃー!」
マリアの膝の上で仔猫が返事をし、二人の視線をさらう。
「猫の名前は? なんていうの」
「えっ………と、それは……っっ」
マリアは戸惑った。
まさか、本物のジルベルトに再会できるなんて想像もしていなかったのだ。安易に彼の名を仔猫に付けてしまったことが今になって悔やまれる。
──この子をジルベルトって呼んでるなんて、恥ずかしくて言えないっ!
「えっと……、じっ……ジルです」
「ジル?」
おいで、ジル。
ジルベルトが仔猫に手を伸ばす。マリアが「あっ」と声をあげる間もなく「うにゃっ!!」仔猫がジルベルトの手を引っ掻いた。
「だめよジルベルトっ?! すみませんこの子、人見知りなんです。………ぁ 」
慌てて口を塞いだがもう遅い。人間のジルベルトは「は…」と息を吐くように笑った。
「ち……ちがうんです、この子は
仔猫は知らん顔で身体を舐めている。
ジルベルトが腕を伸ばし、片手で仔猫の身体をそっとつかみあげた。
仔猫はキョトン。
そのまま宙を渡り、顔の前に持って行かれる。
「知っていたよ? おまぇは俺と同じ名だ。……な、ジルベルト?」
「にゃー」
仔猫と視線の高さを揃えたジルベルトの呼びかけに応えるように、仔猫がしっかりと鳴いたので——マリアは大慌てだ。
「知っていたって、どうして……っ」
「仔猫に
「猫に同じ名前をつける人なら、他にもいるのでは?!」
「国境付近の居酒屋で働き、俺の名をわざわざ仔猫に名付ける
「あなたはそれをっ……この子の名前を知っていて、私にわざとお尋ねになったのですか?!」
──からかわれた。
もうこうなれば、仔猫をジルベルトと呼んでいたのを隠そうとした事さえも恥ずかしい!
マリアが頬を真っ赤に
「単純に気になった。なぜ俺の名前、猫に付けたんだ?」
なでるような優しい声で。
長い睫毛の奥の青い瞳で……。
射抜くように視線を向けてくる。
「それは……」
ジルベルトは仔猫を身体ごと口元に持っていき、小さな頭にキスを落とす。その間もマリアをじっと見つめたまま、目を逸らせることはない。
マリアの胸の鼓動が激しさを増していく。
目の前にいるのは、もう一度会いたいと思い続けてきた青年で、もっと言えばマリアが初めて淡い恋心を抱いた相手なのだ。
──こ……このような事態をどう乗り切るかなんて、お母様にも教わっていませんっっ!