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雨が連れてきたもの


 ──どのくらい探し回っただろう。

 黒灰色の雲は雨粒をしきりに落とし続け、マリアの視界を白く濁らせる。


 先ずは仔猫が元いた場所、数件先の宿屋の軒下を隈なく探したが、そこに仔猫の姿はなかった。あの小さな足で、それも雨の中を……。行ける範囲は限られているはずなのに、周囲をいくら探しても見つからないのだ。


 ──ジルベルトっ、どこにいるの!?


 心配で張り裂けそうな胸の痛みに耐えながら、道路の向かい側を見つめる。宿場街の泥道には水が溜まって人間が歩くのさえままならない。それに時々馬車も通る。


 ──あの子は賢い子。こんなに危ない道をわざわざ横切るとは思えない。


 道路を渡れば土手の向こう側には運河が流れる。

 普段はのどかな青い水を湛えているが、梅雨のために増水した川面は泥水の激しい濁流に姿を変えていた。


 マリアの心に一抹の不安がよぎる。


 ──ジルベルトがこの道を横切るとは思えない。でもあの子が平常心を失くしていたら……?!


 川の濁流に呑まれる仔猫の姿を想像すれば、マリアの背にゾッと寒気が走る。急いで道の向こう側へ渡り、草むらを踏めば足元からビシャビシャと厭な音がする。靴の中も水浸しだが、かまわず川べりに向かって進んだ。


「ジルベルトっ、どこにいるの……!? お願いだから応えてっ」


 いくら大声で叫んでも、マリアの声は雨とごうごうと流れる濁流の音にかき消されてしまう。


「お願い……応えて……!」


 祈るように声を振り絞って叫べば、目頭がじわりと熱くなった。


「ごめん、ね……っ」


 ──可哀想なジルベルト。

 私がもっと早く、あなたがいじめられている事に気づいていたら……。


 祈るように両手を胸の前に組み、マリアが項垂れた時だ。


「………みゃ………」


 濁流と雨音のなかに消え入りそうな猫の鳴き声が耳に届く。慌てて顔を上げ、辺りをもう一度見渡した。


「………みゃぁ」


 今度ははっきりと聞こえる。マリアが声のする方へと足を運べば──濁流のすぐそばにある背高い石の柱の上に仔猫、ジルベルトがいた。すぐさま駆け寄り、背を伸ばして震える小さな身体を抱き上げる。


「どうしてこんな高い場所に?! あぁ……ひとりでは降りられなくなってしまったのね……」


 ジルベルトが乗っていた柱の上面はとても狭い。少し仔猫が動けばいつ濁流に落下したっておかしくなかった。


「ずっと動かずにいたなんて偉いわ、ジルベルトっ。あなたはやっぱり賢い子ね……!」


 よほど心細かったのだろう。仔猫がマリアの匂いを求めて鼻を擦り付けてくる。

 マリアは髪が張り付いたずぶ濡れの頬を。仔猫は濡れそぼった頭を──互いの存在を確かめ合うように寄せ合った。




*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*




 探し当てた仔猫をもうあの寝床に戻すわけにはいかない。マリアは仔猫を屋根裏の自室に連れて行き、冷えた身体を拭いて寝台の毛布にくるんだ。

 マリアも自分の髪や身体も拭き、着替えてざっと身支度を整える。


「私が戻るまで、ここで待っていてね……っ」


 いつまでもこうしているわけにはいかない。

 雨で店の客足が少ないとはいえ、マリアが休憩時間を過ぎても戻らないと店主が怒り散らしているはずだ。


 ──廊下が泥だらけ……随分汚してしまった。


 急いで雑巾を持ち出し、裏口から階段付近の床を拭く。マリアがいる少し先の、店内に続く扉の向こうから聞こえる声はミアのものだった。


「あそこで猫の世話をしてたのはきっとマリアよ、間違いないわ」


 猫、と聞いて、マリアが耳をそばだてない理由はない。


「でね、あの猫ったら。私にぜんぜん懐かないから、食器を壊してやったの。そしたら……引っ掻いたのよ?! 私の手をっ!」


 ──ジルベルトのお皿を割ったのはミアだったのね。


 怒りが込み上げてくるが、マリアはその怒りの感情をぐっと胸の内側にしまい込んだ。


「だ〜か〜ら〜! 向かいの川縁に連れてって、捨ててやったの! あの小生意気な猫を柱の上に乗せてやったのは、この私のだと思って欲しいわ」


 ──あの子を、捨てたですって……?


 もう黙っていられなかった。

 溢れ出した怒りがマリアの全身からほとばしる。


 突然に店のホールに現れたマリアの姿を店内に居た者たちが一斉に見遣った。雨足が強いからか、その中に客の姿はない。


「マリア……! あんた今まで、どこで何してたの!?」

「いくら暇だからってサボっていいって道理はないからね!」

「あんたがサボるから、余計な仕事が増えたじゃない」

「何よ、その髪っ。びっしょびしょ」

「汚らしい……」

「ろくに働きもしない穀潰しが」


 途端、濡れた雑巾がマリアに向かって飛んできた。だがそんなことはどうでもいい。


「なぜ仔猫を川辺に放置するようなことをしたの……。この雨で濁流が溢れて危険だとわかっているのに……」


「店よりも猫の心配? あんな可愛げのない猫なんてどうでもいいわよ」

「客もいないんだし。サボってたぶん一人で掃除でもしな!」


 金属製のモップとバケツがひっくり返り、濁った水がマリアの足元に飛び散った。その様子を見てミアたち三人がケラケラと笑っている。


 ──ああ、お母様。

 人の根は善であると教えてくださったお母様。

 無力なこの私にも。

 悪に寄った人たちを善に戻そうと努めることはできます。


 マリアはミアに近づいた。


「な、何よ、その目は……! あんたが仕事をほったらかすから……っ」


 パンッ! と、乾いた音が店内に響く。

 頬を叩かれたミアは、何が何だかわからず目を白黒させている……まさかマリアが、自分に手を上げるなど思ってもいなかったからだ。


「生き物をいじめる、命を粗末にする。それがどれほどの大罪か、この世に尊い生を受けていながらわからないのですか!」


 マリアの怒号の剣幕にミアたちが初めて怯んだ。それは店内にいた者たち皆も同じだろう。


「私が仕事ができないのは認めます。そのことで私に鬱憤をぶつけるのも許しましょう。ですが命を粗末にすることだけは許しません!」


 身体を打ち震わせ、怒りに満ちたマリアの眼光が周囲の者たちを威圧する——誰にも反論の余地を与えないほどに。


 喧騒を聞きつけた店主が店の奥からやってくる。頬を抑えるミアと怒りに震えるマリアを見て事態を悟ったのか、目を爛々とさせた店主がマリアの前に立ちはだかった。


「マリア……ッ、俺は置いてやってんだぞ? 役立たずのお前を! 仕事もろくに出来ねぇ奴が、逆ギレする権利なんかあると思ってんのか!」


 店主は憤りで顔を真っ赤にしている。だがそれはマリアも同じだ。


「あなたは、雇い主失格です」

「あぁ?!」


「私のミスではないものを私に押し付ける。勝手に評価を決めて使えないと公言する。いざこざが起きても真実を見ようともしない。雇い主だと豪語するのに従業員の管理すら出来ないような人の経営するお店が、繁盛するはずがありません!」


 マリアは怒りのままに想いをぶちまけた。

 溜まっていた鬱憤を晴らしたのではない。これはマリアからの叱責だ。


「黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって……」


 図星を刺された店主が、拳を鳴らしてマリアに近づいてくる。けれどマリアは怯まない。


「殴りたければ殴りなさい。私は、何ひとつ間違っていません」


「このアマッ、今そうしてやるよ! お前はクビだ!!」


 頭上に振り上げられた拳に、マリアはぎゅっと目をつむる。

 一秒後の衝撃に耐えるために。


「ぇ…?」


 だがいくら待ってもその衝撃は来ない。目を開けると、店主の真横にもうひとり、背の高い男性が立っていた。


「なかなか度胸が有るじゃないか、マリア。良い覚悟だった」


 精悍な眉、翼の睫毛。

 そして、強い意志を放つアイスブルーの瞳——


 店主が振り抜いた拳を片手で難なく受け止めているその青年は、握力だけで店主を跪かせると、


「今の話を始めから聞いていたが、筋はどうやらマリアにありそうだ」


 ──が、私を庇っていた。



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