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雨がうばうぬくもり



 屋根裏部屋に帰り寝支度を整えたマリアだが、寝台に入ってもなかなか寝付けない。別れ際に見せた、今までとは違う仔猫の様子が何度も頭をよぎるのだ。


 仕方がないので寝具を抜け出し、寝台に座って髪の手入れを始めてみる……腰まである長い髪は、普段は邪魔にならないよう頭のてっぺんにまとめていた。


 ——そういえば、もう何日もちゃんと梳かしていなかった。


 淡いストロベリーブロンドの髪色は母譲り。

 艶々《つやつや》だった髪は安価な石鹸を使うことで痛み、ごわついて手触りも悪い。毛先までブラシを通そうとすれば、途中ですっかり絡まってしまう。


 いっそのこと短く切ってしまおうか。

 ままならない生活の中で何度もそう思ったが、生前の母の長く美しい髪に憧れていたマリアは、母の面影を残すこの髪——まるで母の形見のような——にハサミを入れることがどうしても出来ないのだった。


 薄い屋根の上にバラバラと落ちる雨音は激しくなるばかり。

 この雨のなか、ひとりきりで寂しい想いをしていると思えば仔猫が気にかかって仕方がない。仔猫が懐いてくれるほどに愛情が増していき、同時に心配も増えるのだ。


 ——あんなに寂しそうにして。


 白銀の被毛にてつくようなアイスブルーの。高貴な猫ジルベルトは気が強そうに見えて、案外寂しがり屋なのかも知れない。

 これはマリアの想像でしかないけれど、人間のジルベルトも同じじゃなかろうか。

 高貴な身分を持つ彼は気位も高そうだけれど、心のどこかに寂しさを潜ませていそうな……そんな目をしていた。


 ——あれから二ヶ月近く経つのだし、怪我が治っていれば良いのだけれど。


 膝の上で心地よさそうに撫でられている仔猫の姿を、マリアの膝に頭を委ねながら介抱されるがままに眼光を緩ませ、時々ほほえみさえ見せてくれたジルベルトと重ねてしまう。


 ——あの頃は幼くてよくわからなかったけれど、お母様のお言葉が今となれば心に響きます。


『私の小さなリュシエンヌ。あなたもいつか誰かに恋をして、その人と片時も離れたくないと思う日が来るでしょう。』


 ——お母様……この気持ちは『恋』なのでしょうか? もしそうだったとしても、もう会えないかも知れない人を想い続けるのは辛いことです。


 命のともしびが消えゆくなか、マリアの母親は残された最期の力をふりしぼり、マリアに伝えようとした。


『よくお聞きなさい。この先あなたは幾度となく人生の壁に当たるでしょう。

 どのような境遇であっても、芯を折ってはいけません。

 前に進むことを諦めたり、ましてや自ら命を断つようなことなどあってならならないのです。

 私がこの世を去っても、リュシエンヌ……どうか忘れないで』


 ——仔猫のジルベルトは、神様が与えてくださったギフトに違いない。初めて好きになった人の面影を忘れずにすむように。仔猫と一緒に生き抜く強さを、私がちゃんと持てるように。


 枕元にブラシを置くと、マリアは寝台に横になる。

 宵闇のまどろみに浮かぶのは、乱れ髪に無精髭を生やした、それでもマリアの瞳の奥に焼き付いて離れない美しい囚人の姿だ。


 ——無精髭でも乱れ髪でもないあなたは、いったいどれほど綺麗なの……?


 甘美な妄想に浸っていれば、昼間の疲れも手伝ってぬるい眠気が首をもたげてくる。

 ゆっくりと閉じていくまぶた——薄い屋根に打ち付ける雨音のなか、マリアは静かに意識を手放した。



 *



 次の日——仔猫のジルベルトは警戒心をあらわにしていた。

 お腹を見せるほど心を許していた仔猫が、だ。


 寝床から抱き上げようとしたマリアの手を、仔猫は思い切り引っ掻いた。

 マリアも驚いたが、優しく声かけをして身体をそっと撫でれば「にゃー」。いつも通りの甘えた声を出しはじめる。


 抱き上げて膝の上に乗せ、よしよし……と撫で続けていると、マリアの匂いに安心したのか、まるで落ちるようにすうっと眠るのだった。


 その次の日、仔猫はマリアを更に驚かせた。


 寝床に仔猫の姿がない——こんなことは初めてだった。

 その日は半日待っても姿を見せず、とうとうどこかに行ってしまったのだろうかと諦めかけたとき、夜になってマリアがおそるおそる寝床を覗けば「にゃー、にゃー」。

 マリアの姿を見つけた仔猫が嬉しそうに駆け寄り、マリアの足元に身体をすり寄せてくる。


 ——寝床にいたり、いなかったり。行動範囲が広がっただけなのかしら?


 数日、そんな事が続いた。

 仔猫が急に行動的になった事に疑問を抱いていたマリアだが、突然にその理由を知ることになる。


 真夜中から雨が降り続く朝、マリアが仔猫の様子を見にいくと。

 寝床に仔猫の姿はなく、仔猫が気に入っている食事の皿が真っ二つに割られていた。


 陶器の皿を他の動物が壊せるとは思えず、明らかに人為的なものだとわかる。

 マリアは、やっと気づいた……ここしばらく仔猫の様子がおかしかった理由を。


 ——なんてこと……。私の知らないあいだに、誰かに見つかっていじめられていたのね……!?


 新しい器を用意して昼休みに仔猫の寝床に行ってみるも、仔猫は戻っていない。こんなに長く寝床を留守にしたのは初めてで、マリアの心配は頂点に達する。


 ——お腹がすいて戻ってもいい頃なのにおかしいわ。いじめられて、お皿まで割られて……っ。ジルベルトは、ここに戻るのが怖くなってしまったのね?


 昨夜から降り続く雨は激しさを増すばかりだ。

 いったいどこに行ってしまったのだろう……まだ小さな仔猫にとってこの敷地の外の世界は危険な事だらけ。雨で視界が悪いなか、馬車に轢かれたっておかしくはない。


 マリアは——午後から仕事があるにもかかわらず、慌てて居酒屋の裏庭を飛び出した。



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