——お腹がすいているはずなのに食べないなんて。体の具合が悪いのかしら?
仔猫の様子を見ていてあげたいけれど、店主はマリアを待ち兼ねているだろう。後ろ髪を引かれながらも、魚の器をそのままにしてマリアは仕事に戻ることにした。
それでも仕事中は仔猫が気になって仕方がない。
——あの雨をひとりで耐えていたのだからきっと大丈夫、すぐにどうにかなるわけじゃ……っ
必死でそう思おうとするけれど、相手はとても小さな仔猫。マリアは心配でたまらない。
騒つく心に平気だと言い聞かせているうちに、ようやく従業員の休み時間が来た。定食屋が居酒屋へと切り替わるまでの、半時間ほどの休憩だ。
ミアたちに怪しまれないよう(仔猫を拾って来たことが知れたら、それこそ何をされるかわからない)まずは自分の部屋に戻る。
マリアは薄暗い屋根裏部屋を見渡した。
小さな窓が一つ。屋根は板張りではなく、木組が剥き出している。
がらんどうで埃っぽく、手洗い用のスタンドに洗面器と水差しと、枠組みが錆びた小さなベッドと着替えが入っているブリキの箱が一つ置かれているだけ。
それでもマリアが唯一安心できる場所だ。
——本当はここに連れてきてあげたいけれど、ミアたちがいつまた入ってくるかもしれないし
マリアは自分が持っている薄いタオルケットの中でも、いちばん地厚そうな布を抱えた。それから小さな薬箱も。
——さっきは急いでいて気付かなかったけれど、体のどこかに怪我をしていて、ご飯が食べられないくらい辛いのかも?
誰にも見られないように気を付けながら階段を降り、裏庭に出る。そこから伸びた草の中を少し行けば、あの井戸……仔猫がいるはずの場所だ。
仔猫が横穴の中で大人しく丸まっているのを見て、マリアの鼓動はようやく平静を取り戻す。
「本当にいい子! 元気になるまで、ここから離れちゃダメよ……?」
そっと仔猫を抱き上げれば、
「みゃー」
マリアを認めているのか、仔猫はもう抵抗を示さない。体中をじっくり確かめれば、後ろ足に擦り傷があった。
「痛かったわね……さぁ手当ができたわ。もう大丈夫よ! 仔猫ちゃん。ご飯を食べて……早く元気になってねっ」
抱き上げた仔猫の顔を目の前に持ってくれば、仔猫のアイスブルーの
「あなたの
*
横穴で仔猫の世話を始めてから、数日が経った。
マリアの前では決して食べるところを見せようとしない仔猫だったが、次に行けばお皿の上に乗せておいたものが綺麗になくなっている。それも野菜を煮ただけのものはあまり食べず、肉気や白身魚を好むようなのだ。
マリアはそんな仔猫を称賛した。
「あなたはプライドの高い子。ちゃんと自分の意思とこだわりを持ってる。勘違いをしないでねっ、これは褒めているのよ? 高貴な猫は、プライドが高いの」
石鹸と湯で身体を洗ってやれば、仔猫の被毛は見違えるほど白くなった。綺麗になった毛並みは月明かりの下、滑らかな絹のようにも見えた。
「私ね……あなたは野良なんかじゃなくて、『高貴な猫』だと思うの。大きなお屋敷から逃げ出した、確かな血統の仔猫ちゃんに違いないって。瞳も毛並みもこんなに綺麗なんだもの」
「みゃー……!」
店の従業員たちに気付かれないよう細心の注意を払いながら、時間の許す限りマリアは仔猫の寝床に通った。
仔猫の薄いブルーの瞳には正気が宿り、マリアが拾った時よりほんの少しだけ成長したのか、鳴き声もしっかりとしてきた。
「遅くなってごめんね! 夜ご飯を持ってきたわ」
いつものように寝床で丸まっていた毛玉が少しだけ動いて、仔猫がマリアをチラ見する。
「またそんな顔をするのね? 今日は白身のお魚を持って来たのよ?」
仔猫に食事を置いてから、じゃれ合って遊ぶ。そんな些細な事がマリアの大切な日課になっていた。
時折、雨季の冷たい小雨がマリアたちの頭上に降り注いだが、幸せな時間を過ごす
マリアが手を差し伸べて白い被毛を撫でれば、にゃー…とひと鳴きをして、媚びるようにマリアの手に頬を擦り寄せてくる。
「今さら謝ろうったって遅いんだから」
仔猫は普段つっけんどな態度を取る割には、時折甘えたような仕草を見せる。
マリアはそんな仔猫が愛らしく思えて仕方がない。
「実はねっ、あなたのアイスブルーの瞳も、仕草も……誰かさんにとてもよく似ているのよ?」
「みゃー…」
仔猫を膝の上に抱いてゆっくりと撫でながら、マリアは子猫の背中に揚々と話しかける。仔猫はよほど気持ちがいいのか、もっと撫でて……とでも言うようにころんとピンク色の腹を見せた。
「その人はあなたと同じで、とても高貴な身分を持つ人なの。プライドも高くて…… あ、これは私の想像だけれどっ。そしてね……凛々しくて、高潔さに溢れていて。なんて言うか、普通じゃないオーラを感じるの。あなたみたいにね、愛想無しに見えて本当はそうじゃないっていうか……。彼はきっと、甘え上手だとも思うのよ?」
そんな自分の発言につい頬が熱くなってしまう。
「私……。あなたとその人を、重ね合わせているのかも知れないわね」
——『ジルベルト』。
いつしかマリアは、仔猫をそう呼ぶようになっていた。
「元気になって良かった。ジルベルト、大好きよ……」
「みゃー」
仔猫は気持ちよさそうにマリアに身体中の力を委ねている。夜空一杯に広がった黒雲から、また小雨が降り始めた。
「雨が酷くならないうちに、もう横穴に戻りましょうねっ」
「みゃー、みゃー」
「いやいやしてもダメよ、爪を引っ込めて? あなたの綺麗な毛が濡れちゃうわ」
「みゃーみゃー、みゃーッ」
「ジルベルト……?? どうしたの、こんなに聞き分けが悪いなんて」
仔猫——『ジルベルト』は
夕立のように雨足を強める雨が、容赦なくマリアと仔猫に降り注いた。
「明日また来るから、穴の中で大人しくしてるのよ?」
仔猫のか細い前足を少し強引に引き剥がし、横穴の中に敷いたタオルの上に乗せた。
マリアも濡れそぼっている。このままでは風邪を引きそうだ。
自分に何かあれば小さな仔猫の世話をする者がいなくなり、お腹をすかせた仔猫はひとりぼっちで寂しい思いをするだろう。
「一緒に居られなくてごめんね……ジルベルトっ」
井戸を背にして振り返れば。
草に隠れた横穴から身を乗り出すように顔を出した仔猫が、酷く不安そうな目をしてマリアをじっと見つめていた。