それから数日のあいだ、土砂降りの雨の日が続いた。このウエストエンパイア一帯において、雨期の到来を告げる長雨だ。
夜間は付近にある宿屋の客で賑わう居酒屋だが、昼間は西の国境に向かう旅人たちが立ち寄る定食屋になる。だが雨期に入り雨が続くと客足も減ってしまう。
マリアたち授業員もがらんどうの店ではすっかり手持ち無沙汰で、いつもはマリアのそばで皿をわざと落として割ったり、掃除バケツをひっくり返したりするミアたちの意地悪もなりをひそめていた(仕事も無いので意地悪の
ようやくおさまった雨足が灰色の雲の合間に太陽を連れてきた、そんな日だった。
「これを宿屋のアムルに届けてくれ、三件先の宿屋だ。わかるよな?」
お遣いを店主に言い渡されたマリアは、両手におさまるほどの大きさの包みを持って大通りに出た。
大通りと言ってもここはウエストエンパイアの西の果て。田舎道は土砂降りの雨のあとのぬかるみで、一歩行くたびにマリアの剥き出しの足元にビシャリと泥水が跳ねる。
「どけどけ!!」
すぐ近くを馬車が通り、大きな車輪が特大の泥水をはね飛ばした。
それはマリアにも容赦なくかかり、言われた宿屋に着く頃にはスカートの上のほうまで泥のシミだらけになっていた。
「お届け物です」
そんなマリアの姿を見て宿屋の主人は顔を顰めたが、そんなことよりもマリアの頭の中をいっぱいにしていたのは——
——
宿の主人への挨拶はそこそこに、急くように外に出る。
——この辺りなんだけど
宿屋の軒先に酒瓶が並べられている場所があり、マリアはその木箱のわずかな隙間にうごめく灰色っぽい小さな
——あの三角の耳はきっと仔猫ね? それもかなり小さな……。母猫が近くにいるといいけど。
心配になり、酒瓶の木箱の間をそっと覗き込む。木箱と木箱の間の、奥の方にうずくまるように丸まって、小さな毛玉がじっとこちらを見つめていた。
マリアが手を伸ばすと、
「シャーッ!」小さいながらにしっかりと威嚇してくる。だけどその様はどこか弱々しく、突然目の前に現れた大きな人間の顔に必死で「来るな、近寄るな!」と訴えているように見えた。
「あなた、ひとりぼっちなの?」
宿屋の軒先に沿って細い路地のようになっているけれど、辺りを見渡しても親猫の姿は見られない。
「あなたも、ひとりぼっちなのね……?」
この場所にうずくまり雨風は凌げていたのかも知れない。けれど灰色に汚れた仔猫の被毛の下には露骨に丸く飛び出し、背骨が毛皮から浮き出て見えた。
——こんなところであの雨に耐えていたのかしら。また降るかもしれないし、このまま放っておいたら死んじゃうわ。
「大丈夫よ、怖がらないで……ねっ?」
仔猫を興奮させないように、マリアはゆっくりと……そうっと手を伸ばす。
「痛っ」
仔猫の爪がマリアの手の甲をかする。たとえ極小の爪でも、仔猫にとっては決死の一撃だ。
「大丈夫よっ……。大丈夫だから、こっちにいらっしゃい?」
その隙間はとても狭い。かがんで両方の肩を縮こませるようにして、もう片方の手も木箱の隙間にそっと差し込んだ。
フーッ、フーッ
小さくなって眉間に皺を寄せていた仔猫だが、マリアの両手が自分に危害を与えるものではないとわかったのだろうか。しばらくすると、先ほど自分が付けたばかりの傷跡を赤い舌でちろちろ舐め始めた。
「良い子。持ち上げるわよ? 少しだけ我慢してね」
少しずつ手を動かすたびに優しく声をかける。マリアの言葉に応えるように、仔猫は時々消え入りそうな声で「みゃぁ」と鳴いた。
「なんだマリア、遅かったじゃないか!」
雨が上がったからだろう。定食屋は思いのほか混んでいた。マリアの姿を捉えた店主が怒鳴る。店主の両腕には食事が盛られたトレイが載っていた。
「すみません、宿屋のご主人とお喋りをしていて」
「何話してたんだか知らんが。そんな事言って、アムルんとこでもなんかヘマしたんじゃないだろうな?! ったく、使えねぇ」
日頃からマリアの失敗を見下す従業員たちがくすくす笑っている。
——泥だらけでご主人には変に思われたかも知れないけど、言われた荷物はちゃんと届けたわ。ヘマなんてしてない……。
「遅くなって申し訳ありません。この格好のままじゃお客様に失礼なので、部屋で着替えてきても良いでしょうか」
チッ。
店主の舌打ちが聞こえたが構わずに背を向けた。
「どうしてあんなに汚れるのよ?」
「泥団子でも作ってたんじゃないの」
泥だらけのマリアの姿を見て、ミアたちが
ホールを出るやいなや、マリアは一目散に部屋に戻り、素早く着替えを済ませた。そして向かった先は——。
「みゃー」
マリアの姿を見付けた仔猫が愛らしい声を出す。宿屋からここまで連れてくるあいだ、抱かれたマリアの胸のあたたかさに気分を良くしたようだ。
マリアが落ちた井戸のそばに小さな横穴があり、マリアに連れて来られたまま仔猫はおとなしく丸い毛玉になって待っていた。
「私の言いつけをきちんと守れるなんて。あなたは頭がいいのね?」
お腹すいてるでしょう……と、小さな器を差し出す。先ほど厨房でこっそり拝借した残飯の魚の白身を水に浸したものだ。
「こんなものしかなくてごめんね。次に来るときはミルクを持ってくるから……私の仕事が終わるまで、ここで待っていてくれる?」
「みゃー」
マリアが魚の入った器を仔猫の前に置いても、毛玉は丸まったままで少しも舌を付けようとはしないのだった。