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マリアは戸惑っていた。
まず、言いつけられた井戸がどこだかわからない。
『お店を出たら、すぐ裏にあるわよ』
仕事仲間のミアは確かにそう言った——いつものように、マリアを嘲笑うような目をして。
いったい何がそんなに可笑しいのだか、マリアにはわからない。
それにマリアを笑うのはミアだけじゃない。ミアを取り巻く同年代の居酒屋店員イルマとゼノンも、ミアと一緒になって何かとマリアに絡んでくるのだ。
「ええっと、井戸、井戸……このへんにあるはずなんだけど」
夕刻を過ぎた空には一番星が輝いている。居酒屋店の裏庭はうっそうとして、マリアは群青色の空気に包まれる——
——誰もいないし、暗くて怖いわ。
店裏の井戸から水を汲んで来いとミアに言われた時も、ミアを挟む二人はニヤニヤとうすら笑いを浮かべていた。
その笑いが何を意味するのか、マリアだってわからないわけじゃない。あの三人はいつでもマリアが失敗するのを待ち構えていて、何かあればすぐに店主に報告をする(あることないこと、三倍くらいの尾鰭を付けて)。
もっと言えば、その失敗というのも『彼女たちが作り上げたもの』だと言ってもいい。マリアはいつも
——また
大きくて重いバケツを両手で提げてきたものの、井戸なんて影も形もありゃしない。
——お店が忙しい時間だもの。早く戻らなきゃ店長さんに叱られる。
『マリア、またお前か!』店主の罵声と怒った怖い顔が目に浮かんだ。
どうしよう。
井戸などなかったと言って店に戻ろうか……。
——でもっ。もし井戸水が本当に必要で、井戸もちゃんとあるとしたら?
不安と焦りとで胸がぎゅっと締め付けられる。
あの三人に担がれたのかも知れないけれど、万が一のためにもう少しだけ探すことにした。
——あった……!
黒々とした茂みに隠されるようにひっそりと、古びた井戸がマリアの視線の先にある。急いで駆け寄って——躊躇いながらもこわごわ中を覗き込んだ。
「こんな古い井戸に、お水なんてあるのかしら……?」
井戸の中は真っ暗で何も見えやしない。
マリアが少しだけ深く、身を乗り出した時。
背中を強く押されるのを感じたと思えば、視界がぐらりと回転した。
「きゃ……」
——ドサッ!!
何が起こったのかわからぬまま暗闇の中で目を開ければ——二メートルほどの高さの井戸の底から夜空を見上げている自分を知った。
やられた。
そう思ったけれど、もう遅かった。井戸の上に誰かの気配がしたが、すぐに消えてしまう。
「待って……!! ここから出して……」
叫んではみたものの、マリアの声は井戸の中に響いただけ。
「誰か! いませんか?! 私はここにいます、どうか助けてっっ」
必死に叫ぶ声も、壁の中にすうっと吸い込まれてしまう。
——ひどい、どうしてこんなこと……っ
井戸の壁を叩いたり、叫んだり。この状況に争ってみたものの、マリアの努力は虚しく、ただ暗闇と静けさだけが時間とともに冴え渡っていく。
——このまま誰にも気付かれずにいたらどうしよう
とうとう叫ぶのを諦めて、湿った土の上に座れば——薄暗い井戸の底に、ぼんやりと青い月明かりが届いている事に気がついた。
ふと見ると、井戸の底だけじゃなく自分の足や手のひらも青白くぼんやり照らされている。
井戸の壁を背にして座り、マリアは小さく切り取られた丸い空を見上げた。
——そういえば
寂しさと不安、恐怖、もどかしさ。
牢の中にいたジルベルトもきっと、井戸の底のマリアと同じ気持ちを抱えていたはずだ。
——私を見ていてくれるのは、お月様だけですね。
ジルベルト。
その名はこのひと月と少しのあいだ、マリアが必死で心の奥底にしまいこんで封印してきたものだ。
——ジルベルトはもっと辛い環境だった。
誰にも頼ることのできない不安と死への恐怖……絶望。それに、傷ついた身体は痛くてたまらなかったはずよ?
彼に比べたら、井戸に落ちたくらいどうってことないわ……!
そう思えば、マリアの胸の内を支配していた不安が少しだけ和らぐのだった。
「……ねぇ……ジルベルト。あなたは今頃、どうしていますか?」
怪我は治りましたか。
元気にしていますか。
先ほどまで綺麗に見えていた月も、マリアの頭上からすっかり姿を消してしまった。
果てしなく続きそうな虚無の時間を、マリアは姿なきジルベルトに話しかけることでやり過ごそうとした。
あなたの家はどこにあるの。
今頃、何をして過ごしていますか。
———とても素敵なあなただから。綺麗な恋人と一緒にいるかも知れないわね……?
そうするうちに。
昼間の仕事疲れも手伝って、眠気とともにマリアの意識は遠のいていった。
*
マリアを探しに来た店主に助け出されたのは、店仕舞いが済んだあとの深夜だった。
「なぜ井戸になんか行ったんだ!?」
当然のごとくさんざんに叱られ、お前は役立たずの厄介者だ! と罵声を浴びせられた。
他の店員たちへの見せしめのように怒鳴られるマリアを、ミアたち三人は愉快なお芝居でも見るように眺めた。「井戸の水を汲んでこいと言われたので」とマリアがいくら訴えても、ミアたちは知らぬ存ぜぬだ。
あげく。
三人はマリアが与えられている屋根裏部屋にまでついてきて、これでもかとダメ出しをする。
——わかってる。ミアたちは、私を苦しめることで仕事の憂さ晴らしをしてるんだって。
「私たちが水汲みに行けと言ったですって? 言いがかりよ、妄想じゃないの?」
「そうよっ。妄想癖のマリアだからね」
「ほら、ついこの前だって。黒騎士さまたちがお店に来たとき……」
「そうそうっ! 帝国騎士団小隊長のサイモン様! マリアったら、ちょっと優しい言葉をかけられたからって、いい気になっちゃって」
「サイモン様が、マリアに気があるとでも? まさかそれも妄想??」
「にやにやしちゃって、気持ち悪いったらありゃしない」
「帝国騎士団といえば、超〜エリート! かっこいいわよね〜。あの黒い隊服も惚れ惚れしちゃう」
「ねぇ、マリア?」
窓際に正座をさせられ、うつむくマリアにミアが会話を振ってくる。マリアの頬は泥だらけ、服は井戸に落ちて汚れたままだ。
「私は、そんなつもりじゃ」
「好きなんじゃないの? サイモン様のこと! だってそういう目で見てたもの」
「ええっ?! マリアったら、サイモン様が好きなの?! あははっ、笑っちゃう〜!」
「ばっかじゃないの。あんたなんか、小隊長さまに相手にされるはずないじゃない」
悔しくて、マリアは唇をぎゅっと噛みしめた。
「……ます、から」
「え?! 今なんか言った?」
「マリアが何か言ってるよ!」
「何よ、聞こえるようにもっとはっきり言えば?」
「私っ……好きな、人、他にちゃんと、いますから」
マリアの目の奥には、もう手の届くことのない美しい青年が映る。
『好きな人』とは言ったものの、マリアはこの気持ちが恋なのかなんなのかまだはっきりとはわからない。ただ、このままミアたちのいうがままになるのは納得がいかなかった。
「ええっ! ちょっと、今の聞いた?! 好きな人ですって!」
「またマリアの妄想が始まった」
「あんたにそんないい人、いるはずがないじゃないっ」
「そうよ。いたらここにっ! 私たちの目の前に連れてきてほしいわ?」
「連れて来られるわけないじゃない、
ひとしきりマリアを笑ったあと、気が済んだのか三人は自分たちの部屋に戻って行った。
「……いるもの」
悔しさをぶつけるように、膝の上に並べた両手の拳をぐっと握り直す。
「妄想なんかじゃない……。ジルベルトは、ちゃんといるもの」
堪えていたものが熱になって、マリアの目頭からこぼれ落ちた。
——だけど。
どんなに悔しくても……妄想じゃないって歯向かいたくても。
ジルベルトをミアたちの前に連れてくる事なんか、できやしないのだから。