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第110話 死の迷宮

 地下三階の階段を半ば降りたあたりから、異臭が鼻を突いた。肉の腐った匂い、水の腐った匂い、糞尿の匂い、淀みに淀みきった、下水場の空気。


「鼻が、バカになりそうだ……」


「少しすれば慣れるよ。匂いがキツくても、口で呼吸しちゃ駄目だよ。何が飛び込んで来るか、分かったもんじゃ無いんだから」


 口で呼吸する事をやめ、一馬はあえて鼻呼吸に挑戦した。ファンガスほどでは無いが、慣れるまで彼は顔をしかめ続けるしか無かった。


「配信はどうしますか。先生」


 アーリアは珍しくかなり悩んだ。今回はあくまで先行偵察であり、地下に異常があるのは明白だが、同時に相手は誰にも気づかれないほどの手腕だ。下手をすると、配信そのものを視聴している可能性も捨て切れない。


 だが、配信を行えば、万一自分たちが全滅しても、常に情報を残す事ができる。これが通常のダンジョンであれば、視聴している者たちからの善意の救援を望めるメリットも存在するので、通常通り配信を行って問題ないのだが。


「聖さんたちだけ視聴って、できる?」


〝できないことは無いけど、今回はビデオチャットを使うのは、どう? 〟


「その手があったね。……よし、撮影開始したよ。アーリア」


〝こっちも録画開始したで。センセ〟


「それで行こう。……案の定水がたまってる、か」


 月蟲の淡い光に照らされた通路は、ブーツが沈む程ではないが、淀んだ水が低く溜まっている。慎重に貯水槽への扉を開けると、やはり大量の下水が注がれており、貯水槽から水が溢れかえっていた。


〝管理会社に連絡して、水を止めて貰いましょうか? 〟


「まだ待って、向こうに私たちがいる事を万一でも悟られたくない。いつでもできるように、準備だけ進めておいて」


〝了解や、センセ〟


〝佐藤さん。念の為、火災避難警報の準備は整いましたよぉ、若い連中も集めました〟


「流石に手が早いね。森下くん。いざって時はお願いね」


「ぁ……ぁぁ、あああああ………」


 風の音に全員戦闘体勢を取った。聞き間違いではない。次々に集まってくる水音。そこには、先ほどの若者よりも、脈動する亀裂を刻まれた者たちが、貯水槽に集まりだしている。


 血走った紅黒い目。こそげ落ちた身体。ズタズタの服。口から漏れる悲鳴とも嗚咽とも言えぬ風音。もはや生者とはとても呼べない正気を失った者たちである事は、誰の目にも明らかだった。


「稟さん!! 合わせて!!」


「はい!! 精霊さまッ!!!」


 かつて人であったであろう、亡者の出現に意識が凍りつく直前。揺るぎない決意を持って、二対の杖が振るわれる。雷と岩の塊が、雪崩となって轟音を響かせて、亡者たちに襲いかかる。


 手加減一切無用の雷撃により、体中を穴だらけにされ、岩の塊に押し潰されて、亡者の一団は動きを封じられた。


「まだ、動くのか……!?」


「トドメは無し! 森下くん!!!」


〝水源を停止し、火災警報を! 一刻も速くお客様を、すべて退避させて下さい!!〟


〝い、今から全員ですか!!? 〟


〝火災より遥かにヤバいつってんですよ!! 急げ!!! 〟


〝センセ。ダンジョン庁のモンスター課に通報したで〟


「了解。引き続き探索するよ。たぶん相手に完全にバレちゃったと思う。まだ、生存者がいるかも知れないから、慌てず急ごう」


 遠くで火災警報のベルが鳴り響く中、アーリア達は亡者の下半身だけを、身動き取れないように破壊するか、岩で押しつぶして先を急いだ。


「うぁ……」


 粘膜のような空気。油と血と肉の匂い。壁にはテラつく生き物の脂。この一年何度も挑んだダンジョンが、いかに生にあふれている楽園か実感できる事実に、場数を踏んでいるはずの一馬も、わずかに嗚咽が漏れた。


「これは、死の迷宮だね。この時代、こんな場所に、まだ残っていたなんて……」


「死の、迷宮……?」


「人がダンジョンって名付ける前の、原初の地獄。アーリアも十回は挑んだ事が無い。居るだけで正気を削られる。無冥霧と同じ、最悪の迷宮だよ」


 アーリアは生身の人間を連れてきた事自体が、間違いだとでも言うように毒づいた。一馬も稟も、周囲を見渡して、苦悶の表情を浮かべた。


「普通ここまで来ると、大量破壊兵器とか、いっそドラゴンと交渉して、完全消滅させるのが通例なくらいでね。よくもまぁここまで……だよ」


「いったい、どんな存在が、そんな……」


 アーリアは沈黙で答えた。拡張されたであろう通路は下に下にと傾斜している。さながら、地獄の底に落ちていくように。


 暗闇にいち早く慣れたアーリアだけが気づいて、一馬たちに悟られないように精霊ブタも遮り、月蟲たちを少しだけ先に進めた。


 1mほどの動かない芋虫が、鉄格子の向こう側に見える。


 逃げ出せないように手足を乱雑にもがれ、以前は生き物だったはずの肉片が転がっている。牛か、豚か、大きな犬か、あるいは、だ。


「くっ…………」


 鈍器で殴られたような吐き気。目眩に一度だけキツく目元を閉じる。喉元までせり上がった、不快感を強引に飲み下す。


「アーリア……?」


「何でも無いよ。……行こう」


 経験があっても、とても容認できる悪行ではない。もし二人に見せていたら、精神か、倫理か、あるいは根底に、決して消えない傷がつく。


 生命ある物なら正視できない。慣れる事のない暗礁に、ぐぎりと奥歯を噛み締めて、アーリアはそれでも前に進んだ。



◇◇◇



 拡張されたであろう通路は延々と続いている。横道が点在し、暗く、すべて同じような造りに見えるため、方向感覚もままならない。


 もう里扇デパートの下では無いのだろうが、唯一の道標は床の傾斜で、下にさえ進んでいれば進んで行けた。


 それは、目を疑う光景だった。


 高さ50mにも及ぶドーム状の空間。水の波紋か樹木の年輪を表現した、美しい石床。天井を支える何本もの柱。天井中心部には窓らしき円形の穴があり、欠けた弓張月のようで、硝子のように蒼白な陽射しを差し込んでいる。


 そして光の振りそそぐ真下には、一つの寝台がある。乾き、黒ずんだ血化粧のみで、何の装飾もない、石を削り出しただけの四角い寝台には、黒いドレス姿の少女が倒れていた。


 ここまでの道が災禍の極みならば、こちらはまるで静かな湖面。そう思わせるだけの静寂と荘厳。酷い落差に一瞬脳が理解を拒んで、心が麻痺してしまう。


 だからこそ、行動より先に、言葉が漏れた。


「生け贄……?」


「いかにも。もっとも、彼女は既に血液いのちを、すべて提供して頂いた後だがね?」


 白貌が、浮かび上がる。


 暗闇から良くないモノが、浮かび上がるように現れた。日を防ぐような、厚手の時代錯誤な貴族服。頭部はまるで毛髪が存在しないかのように漆黒で、鮮血を思わせる目と口が際立っている。


 背は大きい、195cm以上あるだろうか。突如現れた男は、芝居がかったような仕草で、本当に困ったような顔をしてみせていた。


「やれやれ、営業時間外。ありがたい護符とやらも、奪った謂れは無いんだが?」


「こっちに合わせたつもりだろうけど、下らない冗談だね……」


 アーリアがウルミを引き抜いた。心底目に入れるのも嫌そうな表情で、杖の先端を男に向けている。


「ふむ。嫌われた物だ。初対面でな」


不死者ノスフェラトゥ、吸血鬼でしょ?」


「いかにも。はイデア・ハイマンと。そう言うそなたは、なり損ないか」


 男は臨戦体勢を取る3人に向けて、本当に害意の欠片も感じさせない目線で見回し、アーリアを上から下までじっくりと、稟をさらに時間をかけて同じように見た。


「吾輩たちが長年をかけて築いた物を、少し蹂躙したわけだ。せっかくグレムリンを育てあげ、配信とやらを見物していたというのに」


 見ると、少女の死体には、スマホが胸元に丁寧に握らされていた。イデアは死した彼女を褒め称えるように、少女の死体を撫でた。


「ゴールデンウィークのあれは、お前が……?」


「おっと、取り違えはいけないぞ、坊や。あくまで戦力提供しただけだ。使ったのは愚かなる人間だとも。だが、許そう。元より私は許すつもりだ」


「許す? 人を殺しておいて、何の許しが必要だと言うのですか!?」


「多少賢い食料である獣ザル程度、騒いだ所で不快には感じぬ。……それだけだろう?」


  アーリアの目から、憤りの炎が一瞬にして消え去り、冷たい闇が舞い降りた。失望と殺意が交錯し、彼女はイデアを完全に否定することを決めた。


「アーリア、半端な吸血鬼って心底大嫌いなんだよ。自分で血液1つ作れないくせに、他の生き物に最低限の敬意も払わないんだもん。最悪」


「敬意。敬っているだろう。だから許している」


「祖に連なる尊い血たちなら、こんな形無しな無礼ぶざま晒さないでしょ。親無しの、コウモリモドキ、さん?」


 彼女をもっとも慕う異性である一馬ですら、耳を疑う艶めかしさを感じてしまった。まるで長年連れ添い蕾だった花が、毒花だった事実を突きつけられたような錯覚だった。


 粘つくような、被虐心も、嗜虐心もまとめて逆撫でる、深く濃密な女の色香が滲む声。一馬の脳裏に過る言葉があった。本物の厄介さを孕む物は誘う物だと、かつて翁は語っていた。


 悪を敷く行動のためには、正義だけでなく、より大きな力持つ悪が必要不可欠である。竜を追う物は竜になり、悪を追う物はたとえ正義を身に宿したとしても、悪行が常につきまとうのだ。


 つまり、ことここに至り、アーリアは怪物を殺す怪物になる覚悟を決断した。


「ほう……」


 それまで作り物めいた白貌で、芝居がかった仕草をしていたイデアが、初めてアーリアに、どこか無邪気なだけで微笑んだ。


「わが后にならないか。血族にならずとも許そう」


 一馬がイデアの視線を遮るように、一歩前に出た。親の仇を見るような鋭い視線で、イデアを冷徹な目で見定めている。アーリアはいっそ作り物めいた笑顔で、言い放ってやる事にした。


「耳が腐る。礼儀も恥も無しか。黙れ蒙昧」


「ふははっ、実に悪くない。男としての粗野なる振る舞いも、正式に詫びよう。だがおそらく、そなたは勘違いしているぞ?」


「なに?」


「家長は吾輩が狩ったのだ。至上者のなり損ないに届くほど、この秘する血は安くなく。一戦踊って頂こう。妖幻なる血よ」


 一歩。まるで少女の死体を守るように、怪物の中の怪物である。吸血鬼イデアは勇ましく、足を前に踏み出していた。

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