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第85話

 3日が経過した。バジリスクは自身の牙と毒で、石のようにガチガチに身体を硬直させた鹿を丸呑みし、常に警戒しながらナワバリを観察していた。


 牙の残数は、9本。作りかけを急いで精製したが、これが精一杯。最小数で2本無いし1本で、あの耳の長いメスとオスを殺害できても、残り8本。


 抜け殻から毒液で固めた鎧にも、ガタがきている。水中で長期間は使えず、途中で剥離してしまうかもしれない。


 彼は自身をいさめ、冷静かつ非常に熟考を重ねた。短期的に見れば逃げ出す一択。こちらは負傷し、向こうは無傷。それだけで後先考えず、逃げ出す理由は十分。


 だが、長期的に見れば間違いなく、ここで倒さねばならない。あのオーガもツリーハウスを作りあげている。放置すれば数を増やし、武器を増やし、事実上、このアスピドケロンの移動範囲すべて、放棄することになりかねない。


 攻めるべきだ。幸いアスピドケロンは、そう大きく上陸しない。移動するルートさえ分かっていれば、水中から身を隠しての狙撃や、連中が警戒して遠回りし、水上を無防備に移動するなら、圧倒的に有利となる。


 問題は、連中だけを敵として考えられない事だ。迂闊に湖に逃げれば、遠くからシーサーペントが襲ってくる。それでも最悪水中に逃げるとしても、大回りに陸を必ず目指さねば死ぬ。


 ゆえに、勝負は一瞬。無理でも湖に撤退すれば、陸上生物であるサルモドキからは逃げ切れる。アスピドケロンを離れる最も気が緩む一瞬のみ、最大連射数である4本で攻撃し、結果を確認せず即座に水上を泳いで撤退。これしか無いと、バジリスクは結論づけていた。



◇◇◇



 夕刻前。即席の防空物見台の上から、アーリアは岸辺を確認した。形状や彼女自身が立てていた旗の有無から、アーリアが来た反対側の浜に、アスピドケロンは向かっている事を確認した。


 未踏の地にはやる気持ちを抑え、アーリアは急ぎツリーハウスに戻り、原と今後の行動を相談し始めた。


「あのね。向こう岸が見えてきたよ。このまま順調に乗り上げてくれれば良いんだけどね……」


「そうでない場合。どういたしますか?」


「そうだね。まず。5、6時間くらい寝ちゃおっか?」


「え、良いんですか?」


「むしろ、今が籠城戦のピークみたいな物だからね。向こうを焦らせる意味でも、こちらが休憩する意味でも重要なの。焦らない焦らない」


「な、なるほど?」


「こっち側の最大級のアドバンテージは、休憩場所は万全で、こっちからは襲わなくて良いことなの。だから、十分な休息と食事をとって休むよ」


「わ、わかりました。」


「それと、アーリアについてくるか、ついて来ないかは任せるよ。正直、どっちもメリットもデメリットも、それぞれあるからね」


「ですよね……」


 アーリアにただついて行く事はたやすい。だが、バジリスクが待ち構えていて、足手まといになる可能性はある。


 逆にアーリアから手製のクロスボウを持たされているので、ある程度の援護は原でもできるかも知れない。非常に悩ましい判断であり、アーリアでも決められなかったので、原自身の判断に彼女は任せる事にした。


 アーリアと原は、彼女が持ち込んでいた薄布を隔てて休んでいた。この数日間。原の胸中には若い女性と屋根の1つ下と言う意識と、それ以上にアーリアへ向けている。女神や英雄のような憧憬が渦巻いていた。


 目を閉じて眠る。いまだどうするか決められない自分。彼は眠れなかった。


「眠れない……?」


「ええ。情けない事に……」


「別に良いよ。ぜんぜん眠れなかったら、ここに居れば良いよ」


「でも……」


「向こうがアスピドケロンから、逃げてる可能性も大きいから、肩透かしになるかもだしね」


「ああ。そうなんですか。なら寝ちゃいましょう」


「うん。おやすみ……」


 目を閉じる。原がアーリアの寝息を聞くことなく、夢も見ずに、自分でも信じられないくらい、彼は眠れていた。



◇◇◇



 地上では夜明けの時間頃、アーリアは少し早めに起き出して、向こう岸を再び観察した。アスピドケロンはもう、かなり近く浜に近づいている。


 浜の端には、大きなフジツボや、海藻が巻き付いているような粗雑な集落が見える。ゴブリンなどの集落だろうか。初めて見るアーリアには分からなかった。


 アスピドケロンは、いつの間にか旋回して、浜の方角と逆方向に向かい始めている。急いでアーリアはツリーハウスに戻り、出立の準備を整えた。


「問うよ原さん。君のとるべき道は2つある。私についてくるか、否か。どうする……?」


 原は最後まで悩んで居た。だが、ずっとアーリアに言われて引っかかっていた言葉が、たった1つだけあった。


「よし。……残ります」


「どうして?」


「ここで過ごすことを止めたら。せっかくここで培った心を、また、捨ててしまう気がします。あと数年で死ぬとしても。もう、ここから逃げたく無いんです」


「こわ~いオーガにぃ、食べられちゃうかも知れないよぉお?」


「ぷふっ、そうしたら、毒蛇を食べて余命数年だから、オーガさんも毒殺してやるって、言いますよ」


 あえておどけて言ったアーリアの言葉に、彼は笑ってみせるだけの強さを見せた。悩み、怯え、それでも彼は抗う事を決めていた。 


「夢中になるくらい最高でしょ。生きるって事は……」


「……うん。善き出会いでした。やっぱり、地上を捨てて良かった。もし生き残れたら、その時は……」


「また選んでって言うよ。じゃあね。また会おうよ……戦友」


「…………はいッ!!」


 生きる。生きるのだ。心を抱えて、心を育てて、心をつないで。心を生み出して。原はこの時、戦士とは心のそのもの、生きることそのものだと悟り、戦友とアーリアに呼ばれ、誇らしく彼の戦友を見送っていた。

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