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第82話 愚礼信仰

 時々岩の小さな島が見える以外は、何もない水平線だけの湖を漂い、5日ほどが経過した。原はその間に積極的にアーリアに様々なサバイバル技術を相談し、彼女の知識を求めた。


 煙などのいぶす防虫の重要性。歯医者に行けないので、絶対的に必要な歯磨きのコツ。残った灰による再度の火付けや、灰による物体の洗浄・除菌方法。


 おそらくアスピドケロンの「汗の塊」に近い、岩塩の見分け方や精製方法。食べられる樹海の恵み。簡素な罠の製作や、ニカワによる接着剤の精製。ニカワによるアーリア手製の「枝の鎧」、戦闘の素人でも比較的使える、石歯ナギナタ。


 足踏み式の簡易的な回転研ぎ石機が1台あったので、それに簡素な石のベアリング・ローラーなどで改良して、ごく短時間で作り上げていた。


 その豊富かつ際限の無い知識量、実体験談、技術に舌を巻きつつ、原は少年のように目をキラキラさせながら、アーリアを先生と慕い。気づけば夢中で手伝っていた。


「よし、じゃあ基礎の基礎。最後の1つをしよっか」


「は、はいアーリア先生。何を行うのでしょうか?」


「武術における護身術の鉄則をね。これが万全にできるようになれば、君はもう、立派な戦士だよ」


 戦士。企業戦士ではあった原にとって、なじみがあるようでまったく無縁で思いもよらなかった言葉。強いて言えばまだ少年だった頃、故郷での授業で柔道を少しかじった程度の原にとって、試練の時であった。



◇◇◇



 相手はアーリアの3分の1程度の体格しか無い、まだ若いアルミラッジにした。挑んでくる個体を選び、適度に手傷を負わせて、原だけと対峙するように場を整えた。


「あ、アーリアさん!! どこですか!?」


「突然で悪いけど、あとは君だけで勝ってみせてッ!! 勝てたらご褒美をあげるよ!!」


 声はする。だがヤブが深く、どこに彼女が居るのか分からない。アルミラッジは相当気がたって居るのか、赤い目を爛々とさせて襲いかかろうとしている。


「(む、無理だこんなの……! あぁあ……!)」


 アルミラッジの方は手傷が深く、2度と走る事は叶わない。もはやこれまで。死んでも目の前のコイツに嫌がらせして、一糸報いる覚悟だった。


 対して、原は突然のアーリアの行動に困惑し、せっかく作ってもらった石歯ナギナタを握りしめて、ガタガタ震えるのが手一杯。枝の鎧による、万全の防御体勢でもこれが限度だった。


「ジャ、ァアアアアッッ!!!」


「ひっ……!!?」


 アルミラッジの怒気と、ヘビのような血でににごった絶叫に押されて、原は枝の端まで追い詰められた。


 何度か力なくナギナタも振るうが、ほとんど意味は無かった。アルミラッジは石歯ナギナタをかいくぐり、原の腕に思いっきり噛みついた。


「あ。ア、ァアアアアアアアアッッッ!!?」


 すぐに原は噛みつかれてない腕で殴りつけ、そのまま無茶苦茶に腕を振り回した。アルミラッジを肩で押さえつけ、痛みに狂いながら必死に、腰の入ってないボディブローを何度も繰り返した。


「どう、どうして……どうし……うぇ……」


「そこまで。もう良いよ。もう動かないからね。よくできました、だよ」


「ハッ……ハッ……ハッ……え……?」


 よたつきを含み、声に反応して殴った血まみれのゴム手袋は、簡単にアーリアに受け止められた。気づけばアルミラッジは血まみれのボロボロで、その事実に原は、胃の中の物を吐き出した。


 アーリアは原の吐き出した物を淡々と片づけると、原の腕を念の為調べた。アルミラッジはアーリアにツノを砕かれ、アゴの骨を砕かれていたので、枝の鎧越しに怪我は無かった。


 彼女は続いて包丁を1つ原に差し出した。原はそれがなんであるか忘れたように、見つめ続けているだけだった。


「下処理しないと雑菌が増えるの。手伝ってあげるから、ちゃんとやろう?」


「はい……」


 丸焼きで食べても良かったが、あえて多少保存できるこの方法をアーリアは選んだ。原は苦悶の表情を浮かべながら悪戦苦闘して、粗雑に解体していたが、アーリアは原より遥かに難しい部位を、木で削ったナイフで魔法のように手早く、淡々と解体していた。


 ツリーハウス内にあった葉で結い合わせた網で、川のように流れがある場所に肉を浸した。雑菌対策にはこれが最も良く、縄の中に入っているので、簡単には他の生き物に食べられる心配は無かった。



◇◇◇



 夜の時間帯。ツリーハウスの暖炉で、アーリアはアルミラッジの肺や心臓などの部位を調理していた。芳ばしい香りが部屋中を包んでいたが、原は食べる気にとてもなれなかった。


「鳩だったんだよ、君は」


「ハト……?」


「そ。攻撃の加減を知らないハト。ケンカを始めると、暴力の止め方が分からないの。ネコと違ってね」


 コンコンコンと小さなフライパンを振って、アーリアは語る。

 今回、彼女はあえて戦闘的な手ほどきをまったく口に出さず、原を戦闘させた。足かせになりかねない余計な知識を与えるより、短期間しか伝えられないなら、まっさらな状態で挑ませた方が良いとの判断である。


「よく頑張ったよ。お腹すいたでしょ?」


「はい……」


 ぐぅとお腹が鳴る。心がどうであろうと、身体が食事を欲している。嫌悪感と不快な空腹で、原は涙がにじんで来てしまっていた。


「どうして最後。この子が逃げずに君に立ち向かったか、分かる?」


「分かりませんよ。そんなの……!」


「知ってたからだよ。必死に抗わなきゃ、生きられないって」


「抗、う……?」


 護身について、相手が自分より強い事は前提である。当然だが、よほど奇特な生き物でもなければ、害が多ければ戦いを避ける事が多い。


 毒を含んでいる植物や動物はそこが顕著だ。これは格上相手に、ハッタリをきかせろと言う意味ではない。「わずかな勝機でも、ちぎりとる」「刺されても、斬られても最後まで殺しにかかる」「たとえかすり傷1つつけられない身体でも、毒物のごとく絶対に、ただでは済まさない」などだ。


 原と最後に対峙した時、あのアルミラッジは、ある意味で生き残る事すら放棄して、狂的なまでに凶暴に襲いかかっていた。


 つまり、それができるだけの殺意と狂気、実力と覚悟を持って、初めて護身の術は成立し始めるのだ。


「自分や誰かの身を護るなら、常に相手にただじゃ済まさないつもりで居るしかないの。それが哀しいけど、本来の真理。君が今居る場所の流儀だよ」


 原は噛みつかれた腕を見た。痣こそできているが、もうまるで痛くない。まだ油で肉が弾けるフライパンを受け取る。しゃくりあげるほどに後から後から涙と鼻水が流れ出し、彼はみっともなく泣くしか無かった。


「ごめっ……! ぇっぐ……ごめな……うっ、ひっく……ごめんなさっ……うぅ……!!」


「今夜は君が眠るまで、あの本呼んであげるよ。ね? だから元気だして? 立派だったんだから……」


 アーリアはスプーンですくった肉を差し出した。涙で濡れた肉は冷めても美味く。ただほんのりと暖かさが残っていた。

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