キキロガが注がれた酒を飲み干し、同時に青空がダンジョンに戻っていく。
広場である。さらに岩をそのまま削り出し、重ねたような門の前に、一行は立っていた。
「では岩を退けるぞ。初めての者は気をしっかりと持つと良い」
キキロガがさほど力を込めず、片腕で岩戸を除けていく。すると、パタリと沙耶が倒れかけて、アーリアが地面にぶつかる前に彼女を抱えた。
「え、沙耶さん?」
「やっぱり駄目だったね。少し休ませよっか」
岩の隙間からは、光を一切通さない。容器から漏れ出た
かすかに漏れ出る霧ですら、その部分だけを黒で漂白とでも口にした所だろうか。そんな異常な現象が、目に飛び込んできている。
「無冥霧。文字通り問答無用で、死を一時的に付与する霧だよ」
〝なんだ、そりゃ……? 〟
〝ガス? いや、そんな……〟
〝DEATH……Grim Reaper……? 〟
〝光が、無い……〟
「え、中に入ると、死ぬの……アーリア?」
「ううん。身体だけが死んでる状態になるだけ。聴覚とか、触覚とか、血流とか、体温とかかな。意識だけ残って、一切の生体活動を自分で感じれなくなるんだよ」
〝ひえっ……〟
〝これに触らせる気だったのwww〟
〝怖っ、いやなんか、恐怖すら、何かが、場違いな気がするわ〟
〝Oh……〟
アーリアは手を伸ばして、黒い霧に触れた。別段何が変化することもなく、漆黒色に塗りつぶされているだけに見える。
「え、触れるん、ですか?」
「死に対して心の整理がちゃんとついてて、トラウマが無ければ平気なの。でもあんまりオススメしないよ。この霧やその向こうについては、分かって無いことも多いから……」
「余たち鬼のツノですら、方角を探るのが手一杯。近道には一応使えるが、余ですら傷を負う何かが、中に確実に住んでおる。確か、惣領娘殿は一度、下からの帰還に使ったのだったか?」
「うん。でも出てきたら明らかに数ヶ月経ってたし。たぶん、時間の感覚すらおかしくなってるんだよ」
〝ひえっ……〟
〝なんなんだ、ここは……? 〟
〝前人未到すぎる〟
〝人が入って良い領域じゃねえな。確実に〟
〝Jesus……〟
「だからさ、2人とも」
「え、なんだい、アーリア?」
アーリアが心底嬉しそうに、黒い霧から手を離して、口元を隠した。怪訝そうな2人の顔を覗いたまま、彼女は堪えきれないように吹き出してしまった。
「ふふっ……そんな
言われて一馬と禀は自身の口元に触れた。吊り上がっている。心臓は怖いとバクバク鳴って、心ごとガンガン怖いと言っているのに、黒い霧の向こう側から、目が、離せない。
〝嘘だろ、目がキラキラしてんじゃんwwww〟
〝わははははwwwマジでwwww〟
〝気でも触れてんのかwwww〟
〝まあ、気持ちはわかるわ、どう考えたってここ全部制覇できれば、霊長類どころか地球上でトップだもんwww〟
〝問答無用でトップだわな、そりゃwww〟
〝Great Great All three.GRIZZLYMAN……! 〟
「あはは、おっかない……!」
「違いないね、ふふっ」
「ま、今度来た時にでも触るがよかろう。良い物も見れた。酒でも持って帰るが良い」
「良いの?」
「代わりに祝言には呼べよ。アーリア殿」
キキロガの持ち上げるような声にポカンとしたあと、点火したようにアーリアと禀は真っ赤になって、しばらく何も言えなくなってしまった。
◇◇◇
丸一日かけて、アーリアたちは無事地上に帰還した。明日は学校もあるので、一馬たちは早々に帰宅の準備を進めていた。
「あ、アーリア、さん……」
「なぁに? 沙耶さん、あらたまって……?」
一馬たちが帰り支度を済ませて別れた後、沙耶だけが
何かかしこまった様子で指先をいじっている。アーリアは怪訝な表情を浮かべたが、なんとなく理由は察しがついた。
「その。寮に帰る前に、一緒に来て欲しい所があるの……いい?」
「デートのお誘い?」
「デッ!!?」
ピィッとでもいうように、背中に氷でも突っ込まれたような反応だった。おかしくってアーリアは少し笑ってしまった。
「ごめん。冗談だよ。……お墓参り?」
「あ、うん。そうです……」
「じゃあ、行こっか。着替えて数珠取ってくるよ」
沙耶は葬儀も含めて、爛子をまだ送り出す事が出来ないでいた。どんな顔をして、会いに行けば良いか、どうしても心の整理がつかなかったのだ。
だが今回の探索を通じて、アーリアの人となりを感じて、この人なら何か解決できるきっかけになるかと思い、呼びかけていた。
都内のバスを乗り継いで、夕方に差し掛かった街を眺めながら向かう。乗客は多くは無い。
沙耶はやはり口数少なく、外を見ている事が多い。アーリアは一計を案じることにした。
「好きな子とか、できた?」
「え、なに突然」
「一馬くんは絶対にあげないよって、お話?」
「え。そういう関係、なの……?」
「物色中だよ。禀さんと取り合いしてるけど、絶対どっちも譲らないだろうねぇ」
「なにそれ……」
どこかニヒルに笑みを浮かべて、目線を合わせず頬杖をついて、学生服に身を包んだ乗客たちを眺める。何の気なしに、アーリアが切り出した。
「好きだったの。爛子さん?」
「ら、Likeの方よ!! た、たぶん。でも、憧れてた、の……」
一筋。涙が落ちる。そっとアーリアは少しのしかかるように、沙耶に背を預けた。
「ちゃんと行けそう? お墓に」
「わかん、ない……」
「じゃ、見てよ」
アーリアは数珠を握った手を差し出した。別段変わった様子は、沙耶には見えない。
「戦後。結構多く無縁仏を送ったんだけどね。その時、お経読んでる最中に、数珠が解けちゃったの」
「…………数珠?」
「気づいたんだよ、その時。何かを握りしめてると、手を合わせて拝めないんだな、って……」
「手を……?」
拝むには、当然手を合わせなければならない。
何かを握りしめては、合掌は行えないのだ。
「良いんだよ、前後に何があったって。あそこは何もかも手放して、……死んじゃった人に、向き合うだけの場所なんだから、ね?」
「………………うん」
沙耶は合わせた手を握り込んでみた。視線をそらし、様々な乗客をその目で見て、この中で一体何人が、何かを掴んで、手を握り込んでいないのだろうと考える。
再び、ただ彼女の事を思い出し、冥福を祈る。
きっと常には難しい。でも、心のどこかに漂う彼女に祈るような気持ちで、ただ生きたいと思い直せていた。