そう、なのだろうか。
これを先輩に返したら、元の世界に戻れる?
校章を受け取ろうと、先輩が手を伸ばしてきた。すると、考えるより先に体が動いた。先輩を拒むかのように手を握り込んでしまって、焦る。
私は、必死に考えを巡らせた。
「……本当に、戻れると思いますか? 自転車も、鞄も、ちゃんと戻れたんだと思いますか?」
「そう思うよ。証明はできないけどね。でも、さっき言っただろ。初めて君に会ったとき、どんな風に君が消えたか。あの時無事に戻れたんだから、今回も戻れてるはずだ。それに、俺は見てなかったけど、君の鞄が消えたときも、そんな感じだったんじゃないか?」
尋ねられて、私はこくりと頷いた。鞄から意識と視線を逸らした瞬間、鞄は消えた。まるで最初から何も存在しなかったかのように。
先輩はさっき、私の目は関係ないと言ったが、観測している人が一人でもいれば、その最中に消えることはないのかもしれない。
「だろ? だからきっと、大丈夫だ。今君は、こうしてぴんぴんしてるんだから」
先輩は、私が無事に帰れることを確信したのだろう、晴れ晴れとした表情で笑った。
私も、もちろん嬉しい。けれど……。
どうしてこんなに、胸が締め付けられるのだろう。先輩が憎たらしくて、仕方ないのだろう。
彼の手に校章を乗せるだけで、このおかしな現象から逃れられる。
私の命も、失われなくて済む。
それなのに……。
私はどうしても手の力を緩めることができず、回れ右をして地面を蹴った。
「雪花!?」
先輩に背を向けて走り出した。
何をしようとしたわけではない。ただ、少しだけ、結論を先延ばしにしたかったのだ。
「雪花……! 何のつもりなんだ?」
先輩の足の速さは私が身をもって知っている。迷いのある走りで彼を引き離せるわけがない。あっという間に追いつかれて、校舎の壁に追い詰められた。
先輩の顔が見られなくて、私は地面を睨むようにして見つめていた。
先輩は何も言わない。突然わけの分からない行動をとった私に、戸惑っているようだった。
でも、私だって、先輩を困らせたいわけではない。彼が私のことを真剣に考えてくれていることはわかっているのだ。私のためだからこそ、決して譲歩することはないだろうということも。
――それでも、先輩の迷いのない言葉は私の心をえぐった。
「……どうして、そんな簡単に、帰れなんて言えるんですか……」
一度会えたのが偶然で、二度会えたのが奇跡なら。
三度目はないかもしれないのに。
これが、永遠の別れかもしれないのに。
そう思ってしまったら、体が言うことを聞かなくなった。理性なんてあっという間に脇に追いやられて、気が付くと必死に逃げ道を探している。
どうしても、握りこんだ指が、開くことを許さない。
「いきなりこんなことになって、違う世界だとか言われて、帰れないかもしれないとか死ぬかもしれないとか言われて。それでいきなり今帰れだなんて……、感情が追い付かないんです。少しくらい、時間をくれてもいいじゃないですか……!」
「――雪花。時間がないんだ。取り返しの付かないことにならないうちに帰った方がいい」
先輩はどこまでも無慈悲で優しい。猶予なんて与えてくれない。選択肢すら示してくれない。
彼が守りたいもののために、それが最善の策だから。
それが私のためでもあると、信じているから。
きっと、その責任も何もかも、自分が背負うつもりなのだ。
本当に、容赦がない。
そう思ったら、ふと、笑みがこぼれた。
確かに、逃げ続けるのは私らしくない。逃げたって、諦めかけたって、最後までは逃げない。
――それが、私だったはずだから。
(……ああ、むかつく……)
こんな人と、私は今から別れなければならないのだ。
「先輩は……優しくないですね」
呼吸を整えてそう言うと、先輩は意外な言葉を聞いたかのように、数回、瞬いた。
「心外だな。これでも俺は、雪花には優しくしてるつもりだけど?」
「でも、そっちの雪花ほどには優しくないでしょう?」
唇と腹に力を入れて、声が震えないようにしたつもりだった。けれど、その揺らぎを完全に消すことはできなかった。
今度こそ先輩は驚いたようだった。真意を伺うように、うつむき加減の私の顔を見る。
ごちゃまぜで全然整理なんかできない、混乱しまくった私の感情。
怖い。苦しい。つらい。悲しい。元の世界に戻りたい。安心したい。皆に会いたい。走りたい。
――できるならもっと、ここにいたい。
先輩の、そばに。
……でも、先輩にこれ以上迷惑はかけたくない。自分がどうしなきゃいけないのか、私にだってわかっている。
(だから、お願い。言葉を下さい。この世界を断ち切れる、別れの言葉を)
先輩に背中を押して欲しくて言った少し茶化した言葉は、きちんと先輩に届いたようだ。口の端を少しだけつり上げて、にやりと笑って返答する。
「当たり前だろ。こっちの雪花は――俺の彼女なんだから」
「――……っ」
(……ああ……、やっぱり……)
うすうす気づいてはいたけれど、実際先輩の口からきくと、呼吸が止まりそうになった。
胸の軋みをやり過ごせないかと、大きく息を吸って、吐いた。体の奥底から這い上がってくるような、長く重い溜息がでた。
「……あいつは君と違って、今でもベッドから離れられないんだ。ほとんど学校にも来られなかった。お父さんの転勤先に、彼女みたいな生徒のための学校が併設されてる病院があるらしくて、引っ越したんだ。だから、しばらく会ってない」
会ったばかりの私に親身になってくれたのも、やけに距離が近いのも、先輩の近くに、別の私がいたから。
「でも、頻繁にやりとりはしてるんでしょう?」
「そりゃあね。毎日」
「……むかつきます。私だって、雪花なのに」
本音を少しだけにじませる。すると、先輩は目を丸くして、それから吹き出した。さすがにその反応は失礼だろうとにらみつける。
「ごめんごめん。でもさ、君とあいつは別人だよ。似てるからこそ、よくわかる。……だから、君には、感謝してる」
「え?」
見上げると、優しくほほえむ先輩の瞳がかすかに揺らいでいた。
「夏休みに会いに行こうとしたら断られてさ。受験生なんだから勉強してろの一点張り。泣き言なんて言わないし、放っといても大丈夫なのかと勘違いしてた。……でも、平気なわけないよな。君に会って、それを再確認させられた」
この世界の雪花を思い浮かべているのだろう。目元が下がり、長い睫毛が淡く影を落とす。その表情も、声も、今まで見た中で一番柔らかく、私は今までの勘違いを内心で恥じた。
私に時折向けられる親し気な態度や表情は、全然特別なんかじゃなかった。
先輩にとって大切なのは、その雪花であって私ではない。
先輩がしゃべるたび、彼に執着しようとする心が一枚一枚剥がれていく。
「君のことは心配だけど、それは俺の役目じゃないしな。戻ったらちゃんと誰かに相談するように。……って、聞いてる?」
「え、あ……、き、聞いてます」
先輩は、「本当かよ?」という疑惑たっぷりの目で私を見た。
「あー。そういえば、そっちの俺って、何してるんだ?」
「……知りません」
先輩以外の先輩なんて、興味がない。私の顔を見て、先輩は苦笑した。
「冷たいなあ。まあ、別学年だし、君がそんな状態なら、接点がないのも不思議はないか。あ、でも逆に考えれば、まだそいつ、フリーなんじゃないか? 俺の代わりに、狙ってみれば?」
「は……、はあ!?」
先輩への思いが、クレーン車で勢いよく鉄球をぶつけられたみたいに打ち砕かれた。からかうような笑みがさらに激情をあおる。
「さ……最悪です! 信じられない! 先輩、同じ私でも別人だって、さっき言ったじゃないですか。私だって、こっちの先輩を先輩の代わりにするとか考えられないです!」
「おお、大した自信だな。それは俺を落としてからの話だろ。言っとくけど、俺は手強いよ?」
「すごい自信なのはそっちでしょう? もう一人の先輩が、どんな人かも知らないくせに!」
「いや、大体わかるよ。君がずっと言ってたじゃないか。他の世界の俺にも何人か会ったって。どれも、俺と同一人物に見えたんだろ?」
私はぐっと詰まった。声に勢いがなくなってしまう。
「それは、そうですけど……」
「だったらどの世界の俺も、この俺とそんなに変わらないってことだよな」
「それは……っ! ……でもそれは、飛行場に来てた先輩だけじゃないですか。うちの先輩は飛行場に来たこともないんです。それに、えーと、なんか頭もいいとか……」
「俺も成績は上位に入ってるんだけどな」
「――っ」
二の句が継げなくなると、先輩が声を上げて笑った。
「ごめんごめん。でもさ、冗談じゃなくてほんとだよ。どの世界の俺も、きっとそんなに変わらない。俺、ほとんど迷ったことないからさ。平行世界ってのが選択肢で迷うたびに生まれるものだとしたら、俺の場合は枝分かれなんてないようなもんだから。見た目も性格も、行動原理も、この俺とほとんど同じじゃないかな」
そして、目を細めて続けた。
「だから、いいよ。君に誰かの代わりにされても。俺なら気にしないから」
あっさりと告げられた言葉に絶句する。そんな私に気づかず、先輩は空を見上げた。
いつも、飛行機が飛んでくる方角を。
「と、言っても、全然迷わなかったわけじゃないけどね。眼鏡にするか、コンタクトにするかとか。今日はどこで昼寝するかとか。あとは――」
「――もういいです!」
またからかわれている。
私はやけになって勢いよく右手を振り下ろした。先輩の手のひらにぶつけるようにして校章を渡す。
先輩はゆっくりと手を開くと、校章を見て微笑を浮かべた。
「ありがとう。……君は、俺が呼んでしまったのかもしれないから。だからこそ、無事に返さなくちゃいけないんだ」
(……俺が、呼んだ?)
先輩の独り言のようなつぶやきが引っかかった。
私がこの世界に入り込んでしまった理由。
私が自分のせいかもしれないと思ったのと同じように、先輩も、自分のせいかもしれないと、そう思ったのだろうか。
空の向こうの雪花に会いたくて、また近くで顔を見たくて、それで私を呼んでしまったのだと。
彼女の側にいることを望みすぎて、私をつなぎとめてしまったのだと。
思い返してみれば、先輩はきっと、私より必死だった。真剣に、私がひどい目に遭わないよう元の世界に返そうとしていた。あれは、責任感と罪悪感ゆえの行動だったのか。
やっぱり、先輩の心の中には、たった一人の雪花しかいないのだ。
これでいい。これで、きっぱりと別れられる。
未練なんて木っ端微塵にして、私の背中を強引に押す。
先輩は気づいてくれたのだろう。私の欲しい言葉をくれた。私のことを、こんなにもわかってくれる先輩だからこそ、余計苦しいというのに。
「……先輩の、せいじゃないです。だから、そんな風に思わないで下さい」
「ありがとう。だったら君も、自分のせいだなんて思わないでね」
「――っ」
胸が苦しくなって、とっさに顔を伏せた。嗚咽が漏れそうになって、手で口元を覆う。
この世界とのつながりは、すでに、先輩の手の中にある。
早く、別れを言わなければ。