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第18話

「雪花」


 名前を呼ばれて、のろのろと顔を上げる。タオルを出した後も鞄の中身をあさっていた先輩と、目が合った。


「実験してみよう。この鞄、借りるよ」

「え……?」


 実験って、何の。


 先輩の真剣な表情に不安になる。私への心配を頭の隅に追いやって、何かを決心したかのようなその表情。


 なぜ、何を決めたのか。その実験で何がわかるのか。

 私はまだ、決定的な答えを受け入れる心の準備はできていないのに。


「ま、待っ……て……」


 私が動けないでいるうちに、取り返しのつかないことが起こりそうで、私は焦って声を振り絞った。けれど、引き留める声は先輩に届かず、彼は鞄を乾いた地面に置くと、私の側に戻ってきた。


「君はそのまま寝てていいよ。鞄は君の世界の物だし、きっと、同じ世界の君の視線は問題じゃないから」


 それだけ言って、先輩は鞄に背を向けた。さらに、目をつぶってしまう。


(……ああ、やっぱり私を、ここで帰すつもりなんだ……)


 私を元の世界へ帰すことに、先輩はわずかな逡巡もなく、感情に何のゆらぎもない。

 そう思ったとたん、ぎゅっと心臓が縮んだ。


 気持ち悪さとは別の要因で起きた痛みなのだと、もうわかっている。

 でも、だからといってどうすればいい?

 帰る以外の選択肢が、私にはあるのだろうか。


 頭痛と吐き気のせいで、考えがまとまらない。その間にも、時間は刻々と過ぎていく。


 迷った末、私は鞄が見える位置にずりずりと体を移動させた。今の私にできることはこれだけだ。視界がまだ万全ではなく、鞄がぼやけて見える。

 それでも、目を逸らすつもりはなかった。私にはそれを見届ける義務があると思った。息を止めるようにして、じっと鞄を見つめ続ける。


 一分。

 二分。


 途中、耐えられなくなって、手探りで先輩のシャツを探り当てると、その裾をぎゅっと握る。

 やっぱりまだ、先輩と離れる覚悟はできていない。こんなかたちで、別れたくない。


 先輩が言っていたように、目で見るよりも、実際に触れている方が、つながりを強固にできるのではないか。鞄と同様に彼の視界から外れている私は、一縷の希望にすがる気持ちで、震える指に力を入れた。


 ……体感で五分くらい経った頃だろうか。

 頭を持ち上げていることに疲れ、力を抜くとともにちょっとだけ休もうと目を閉じた。


 少し長めのまばたきのようなものだ。だから、次に目を開けたとき、そこから鞄だけがなくなっていることが、にわかには信じられなかった。


「せ……っ、先輩。先輩!」


 切羽詰まって連呼すると、先輩はすぐに目を開き、体を鞄があった方角に向けた。そして、目的の物が消えていることを、驚くこともなく、静かに受け入れた。


「消えた、な……」


 徐々に、ではなく、一瞬で。あっという間の出来事だった。

 あまりにあっけなさすぎて、目を向けた先を間違えているのかと何度も確かめてしまう。それに、先輩の落ち着きようが、わけもわからず不安をあおる。


 念のため、自分の体も確認してみた。指の先から靴の先まで、どこも消えていないし、隣には変わらず先輩がいる。

 いつの間にか、頭痛も気持ち悪さも治まっていた。上半身を起こすと、先輩が背中を支えながら説明してくれた。


「今ので、君の世界へ戻るための条件が分かった気がする。一つ目は、やっぱり見ていないことが条件なんだ。自転車はここから離れている間に消えたし、鞄も目をつぶっている間に消えた。ただ、それだけだったら、君についても当てはまるはずなんだ。でも、ここに至ってもまだ君はこの世界にいる。公園から帰宅するときも、さっき更衣室で着替えていた時だって、俺の視界からは外れていたはずなのに」


 正確に言えば、自転車も、鞄も、二人とも見ていない瞬間に消えている。それは、現時点では私と先輩がこの世界側・・・・・であって、鞄と自転車が向こうの世界側・・・・・・・にあるからかもしれないと、先輩は言った。


「さっき俺は、目をつぶっていたから、鞄も君も見えていなかったんだ。それなのに、こうして君だけは未だこの世界に残っている。まあ、君が俺を見てたり触れてたりしたからってのもあるとは思うけど、実際、それ以前に君と鞄が一緒の時、俺が見ていなくても戻れなかったってのは同じだろ。そこで二つ目。今鞄が元の世界に戻れたのは、君の手から離れたことが条件だったんじゃないかな」

「……え……?」


 いまいち意味が分からない。先輩は辛抱強く繰り返した。


「君が体験していたここ数日間の現象と今回が大きく違うのは、君がこんなにも長い時間この世界にいることだろう? 自転車と鞄は、今までとほぼ同じ条件で元に戻った。けれど、君は戻れていない。だったら、原因は君にあるって考えるのが自然じゃないか? この世界につなぎ止められている理由は君にあって、自転車も鞄も、君から離れたから元の世界に戻ったんだ」


(……私が、原因……?)


 呆然として、頭が働かない。


 確かに、空港から家に帰ったときも、部室で髪を乾かしていたときも、さっき逃げた時だって、先輩とは五分以上離れていた。思い返してみると、お互いを認識して少し経った後、五分も先輩から目を離していたら、そのままいなくなっていたように思う。


 先輩と過ごす時間は、長い時もあれば、短い時もあった。けれど、今回はさすがに長すぎる。でも、その原因が私にあると急に言われても、思い当たるふしなんてない。


「君、何かいつもと変わったことしなかった?」

「し……してません」


 慌てて首を横に振る。いつもと変わったことなんて、先輩に八つ当たりして怒鳴ってしまったことくらいだろう。けれど、その時のやり取りは先輩も知っているし、さすがにそれが原因とは思えない。


 先輩の張り詰めたような表情が、不吉な予感を募らせていく。


「焦らせてごめん。でも、雪花、君、自分じゃわからないだろうけど、どんどん顔色が悪くなっているんだ。こうやって起き上がっているのが不思議なくらいだよ。今日は公園に来た時から調子が悪そうだったから、そのせいかとも思ったんだけど……」


 先輩は一息つくと、言いにくそうに続けた。


「ずっと、考えてたんだ。ドッペルゲンガーのこと。なぜ、自分とうり二つの人間に出会うと死ぬなんて噂があるのか」


 先輩が、そっと私の頬に手を添えた。けれど、その暖かさを感じる余裕すらない。


「俺も、ドッペルゲンガーの噂をすべて信じてるわけじゃない。こうしたら死ぬとか呪われるとか、いかにもって感じだろ? ……けど、君の状態を見てると、嫌な予感がしてたまらないんだ。君のその不調は、こっちの世界に紛れ込んだせいじゃないかって」

「……、どういう、意味ですか」


 答えを聞くのは勇気がいった。唇が震える。呼吸が、うまくできなくなる。


「この世界にとって君は異物だ。本来ならいるはずのない存在だから、この世界としては排除したいのかもしれない。……つまり、これ以上この世界に居続けると、君の存在が抹消される可能性がある」


 先輩の言っていることがすぐには飲み込めなかった。停止しそうになる頭を、必死でフル回転させる。


「ま、待ってください……。それって、戻る、じゃなくて、ほんとに消える……ってことですか……? 」


 抹消。排除。

 その対象は、私。


 思ってもみなかった暴力的な言葉に圧倒される。

 つばを飲み込もうとしたが、口の中が乾きすぎてできなかった。ようやく、先輩の目に湛えられた感情の意味が判った。


 痛ましいものでも見るような瞳。慈しむような、けれど、悲しみを隠せないその色。


「……そんなに、私は死にそうですか? 先輩に、そんな顔させるほど?」


 なんとか笑顔と呼べるものをつくってそう言うと、先輩もわずかに口の端を上げた。


「次に倒れたら、そう錯覚するかもしれないな。……きっと、体は残らないし」


 今にも死にそうな状態でドッペルゲンガーが倒れて、消える。それは死んだように見えるだろう。

 実際は元の世界に帰れたのか、――それ以外なのか、この世界の人間には判らない。


「多分、もう……タイムリミットが近い」


 最悪の想像が現実になってから後悔しても遅いのだ。


「さっきも言ったけど、原因は君のはずだ。何か思い当たることはない?」


 先輩の深刻な表情が怖くて、私は視線を地面に落とした。


「だから……、何もないんです。変わったことなんて、してない」


 思い当たることはないけれど、私だって死にたいわけじゃない。必死に記憶を巡らした。


 部活での出来事、空港の公園での先輩とのやりとり、そして自宅へ戻って空き家の表示を見つけたこと。

 何かあったとしたら、先輩と会ってから、空港を後にするまでの間なのだろう。


 混乱する頭は、同じ情景ばかりぐるぐると写し出している。朝からちょっと体調が悪かったこと、そのせいで先輩とケンカしたこと……。


「――じゃあ、例えば、何か持ってるとか」

「え……?」


 先輩に言われて、反射的に自分の体を見下ろした。何かと言われても、鞄はもう消えてしまって、残るのは今着ているユニフォームとその上に重ねたジャージくらいだ。


 立ち上がって全身をチェックする。ジャージのポケットを叩いてみると、硬くて小さいものが太ももに当たった。「関係ないと思いますけど」と前置きして、ポケットから取り出した物を先輩の目の前に持ち上げてみせる。


「これ、ただの校章です。たぶん、着替えたときにでも取れたんだと思います。夏休みになってから制服は着てなかったから、鞄の中に落ちてたのに気づかなかったみたいで――」

「そっか。それか……」


 最後まで説明する前に、先輩が私の言葉を遮った。どこか、ほっとしているように見える。


「それは、俺のだ」

「え?」

「俺の、校章」


 そう言われて、先輩の制服に視線を走らせる。そこで初めて気づいた。胸ポケット部分に、全校生徒がつけるべき校章がないことに。


「たぶん、君に手を振り払われたときだろうな。確かに一瞬、何かに引っかかったような感触はあったんだ。でも、無くなったのに気づいたのは服を乾かした時だったから、まさか君が持ってるとは思わなかった。ほら、古事記とかでもよくあるだろ? 黄泉国に行って、そこで出された食べ物を口にしたら、もとの世界へ戻れなくなるってやつ。食べ物じゃなさそうだったから、こっちの世界の物を身につけてるか持ってるかしてるんじゃないかと思って。実は、鞄の中も勝手に探しちゃったんだ。ごめん」


 そういえば確かに、私の荷物を先輩があさっている場面を何度か見た。あれにそんな目的があるとは思わなかった。

 それに、公園で先輩の手を振り払ったとき、ぷつんと音がしたような気がした。あのとき、私の手がぶつかるか何かして、校章が外れてしまったのかもしれない。それが偶然、開けっ放しだった私の鞄の中に転がり落ちたのだとしたら。


「――じゃあ、ほんとに、これが先輩の……」

「うん。きっと、それを俺に渡せば、君は無事に戻れるはずだ」

「―――……」


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