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第17話

 先輩も立ち上がって、首をわずかに傾けた。


「ところで、体調はどう? ……顔色は、あんまりよくなってないみたいだけど」

「……大丈夫、だと思います」


 さっきから自分なりに確認していたのだが、どこも変なところはなかった。あれほど強烈だった不快感が、嘘のように消えている。


 熱中症でも、疲れからくるものでもなさそうだ。今までに経験のないものだったが、今はすっきりしている。むしろ休んだおかげで調子はいいくらいだ。

気のせいとは言わないが、これ以上気にしていてもどうにもならないだろう。


「それより、少し疑問に思ったんですけど。先輩の話が本当だとしたら、私達の世界って、しょっちゅう他の世界と重なってるってことですよね。実際、先輩には毎日のように会えたわけだし。でも、そうだとしたら、ちょっと変じゃないですか? だって、あの公園にはこっちの先輩はいなかったけど、実際、同じ場所にいるときだってあるわけでしょう? そうしたら絶対、もう一人の自分に会ってるはずじゃないですか」

「……あー、そう言われればそうだな」


 先輩は上を見て、考えるそぶりをした。


「まあ、想像してみるに、自分に完全にかぶってる状態だったら、その姿は見えないよな。問題は、ちょっとずれてるとか、違う行動取っている場合だけど。例えば、自分が二人いるはずはないから、無意識のうちに目の錯覚として片づけているとか。ほら、目って、現実をあるがままに写しているように思えるけど、実際は、脳で処理した後の映像を見ているわけだろ?」


 例えば、色を二色組み合わせるとする。一色は同じ色にして、合わせる方の一色をそれぞれ違う色にしてみる。そうすると、同じ色のはずなのに別の色のように見えたりすることがある。


 目の錯覚――錯視――には他にもさまざまなものがあって、有名なものにミュラー・リヤー錯視というものがある。それは、同じ長さの線でも、その両端にくっつける図形の形や向きによって、違う長さに見えるというものだと、先輩が丁寧に教えてくれた。


「それと同じように、本当は日常的に現れているのに、俺たちには見えていないだけかもしれない」

「……あるのに、見えていない……。え、じゃあ逆に言えば、見えていても見えないって思い込めば、実際に見えなくなるってことですか?」


 光明が見えた気がして、勢い込んで先輩に迫る。


「だったら、こっちの世界を見えてないと思い込めば、元の世界に戻れるんじゃ……!」

「ええ? いや、それはどうかな。そうだとしても、すでに見えているものを否定するのって結構難しいよ? しかも君の場合、見えてるだけじゃなくて、色々触ったり会話したりして、存在をより確固たるものにしているというか」


 そう言った後、先輩が独り言のように付け足した。


「あ。そう考えると、君がこっちの世界に入り込んじゃったのは、俺と会話したからとも考えられるな……」

「え? そんな、まさか……」 


 冗談かと思って笑い飛ばそうとしたが、ちょっと引っ掛かって過去の記憶をさらう。


(えーと、初めて先輩と会話したのはいつだったっけ……)


 確か、私が独り言のつもりで言った言葉に、先輩が返答したのだった。


 そういえば、声を聞くまで、私は先輩を認識していなかった。

 あの時は、最初からいたのに気づかなかっただけかと思ったのだが。


「……先輩。なんだか全部、先輩のせいって気がしてきました……」

「いやいや。憶測だよ憶測? ああ、でも、俺としたことが、やぶをつついてしまうとは……」


 ジト目で睨むと先輩が演技がかった仕草で天を仰いでみせたので、私は思わず吹き出した。


 別に本気で恨んではいない。それどころか、元の世界に戻れる糸口を示してくれて、感謝さえしている。まだ可能性の段階だが、驚くほど気が楽になった。

 しかし、それと同時に、心の一部には冷たいものがのしかかり、ゆっくりと重みを増していくようだった。


 ――元の世界に帰ること。それは、先輩と別れることでもある。


 無数にある並行世界。その中のたった一つの世界とまた再び繋がることは、どのくらいの奇跡なのだろうか。


 だとしたら、もう二度と……。


「――雪花?」

「な、なんでもありません」


 先輩が顔をのぞき込もうとしてきたので、私は思わず顔をそらした。

 帰れるかもしれないとわかったとたん、もう少しこうしていたいと思ってしまった。なんて現金なのだろう。こんなこと、私を帰すために頑張ってくれている先輩に言えるわけがない。


「じゃあ、そろそろ行こうか。――って、どこに行こうとしていたんだ?」

「えっ? あ、ええと……、空港に行こうと思っていたんです」


 全ての始まりは、あの公園だった。だから、あそこでなら何か手がかりが見つかるのではと思ったのだが、今となっては、行く意味などないように思える。


 しかし、どう言おうか迷っている間に、先輩は歩き出してしまう。私は一瞬止めようかと思い口を開いたが、結局、重い足取りでその後をついて行った。

先輩は迷いなく自転車置き場へと歩いていく。私を無事に帰すことだけを考えているのだろう。そのまっすぐ伸びた背中を見ながら、私はひそかに唇をかんだ。


 何事もなく自転車置き場へ着いた。

 夏休み中だし、こんな時間に活動している部活はほとんどない。来たときは私達二人分の自転車しかなかった。だから、目当ての物はすぐに見つかるはずだったのだが。


(……あれ?)


 慌てて走り寄る。先輩の自転車はあるのに、その隣に停めたはずの私のそれが見当たらない。

 盗まれたという可能性もゼロではないが、この状況にふさわしい理由は他にあった。


「……これって、元の世界に戻ったってことですよね? だから、私の自転車だけここにない……」


 安堵の溜息をつきながら、先輩に同意を求める。


 なぜ自転車だけ消えたのかはわからないが、推測どおり、帰れることが証明されたのだ。

 けれど、先輩の表情は晴れない。不思議に思って質問を重ねる。


「どうしたんですか? あ、公園のことなら、特に行かなきゃいけないってわけじゃないんで、行けなくても全然かまわないんです」

「うん……、いや、それはいいんだけど」

「え?」

「……や、なんかさ、不思議じゃない? 自転車だけが消えたの」

「……ああ、まあ、そうですね」


 先輩は難しい顔をして、自転車があったはずの空間を見つめている。

 私も同感だったから頷いた。


 私はここにいるのに、自転車はなくなった。無機物だからかと思ったが、だったら、この鞄は。それに、なぜ今なのか。


「考えてみれば、以前君が消えたときもこんな感じだったんだ。よそ見をして、視線を戻したときには、もう君はいなかった」

「先輩は、つまり、見ていなかったから戻ったって、そう言ってるんですか?」

「それだったら、とっくに君もそうなってるはずだろう? 俺が君のことを見ていない時なんて、何度もあった。君が公園を飛び出したときも、さっきだって。――いや、今まではそうだったのかもしれない。今回だけが特別なんだ。今までと違うってことは、他に要因があるはずだ。君の話から推測するに、別の俺とは違って、この俺とは二回も会ってることとか……。でも、多分、それだけじゃないんだ」


 先輩は難しいことをぶつぶつとつぶやいている。私にはいまいち理解できないことばかりだ。

 でも、それでも唯一、察することができたのは。


(――それは、やっぱり、帰れないかもしれないってこと?)


 一気に視界が暗くなった気がした。

 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、展開が早すぎてついていけない。何の反応も返さない私をちらりと見た先輩は、ぎょっとしたような顔で私の肩をつかんだ。


「雪花!? その顔……!」

「……え?」


 顔を上げようとしたら、脈絡もなく、両足から力が抜けた。

 地面に倒れ込みそうになった私を、とっさに先輩が抱きかかえてくれる。同時に、激しい頭痛と倦怠感に襲われた。


 まただ。

 二回目で慣れたのか、気絶するほどではなかった。歯を食いしばり、かろうじて動く指に力を入れて、先輩の腕にしがみつく。

 しかし、痛みのあまり、視界が定まらない。


「すみ、ません……! 突、然、なんか……」

「しゃべらなくていい。さっきよりだいぶ顔色が悪い」


 先輩は私をコンクリートの地面にそっと下ろすと、私の鞄からタオルを出して下に敷いてくれた。私はそこに崩れるようにして横たわった。

 船酔いにも似た強烈な不安定感に、目を開けているのもつらくてまぶたを閉じる。


 私の体は、一体どうしたのだろう。疲れのせいではないと思ったけれど、違うのだろうか。


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