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第16話

「――雪花……、雪花……?」


 今度は男子の声が聞こえた。

 空の下が似合いそうな快活な声が、今は湿り気を帯び、時にかすれ、私の名を繰り返し呼んでいる。


(やめて……。そんなに心配そうな声出さないで)


 重いまぶたに力を込め、くっついてしまったそれを剝がすようにしてゆっくりと持ち上げる。すると、想像したようなきれいな青空を背景に、さかさまになった相原先輩の顔が見えた。


(……なん、で……)


 天と地が逆になったかのような強烈な違和感。ぼんやりと目に映る状況を整理して……、一気に覚醒した。


 ――先輩から、膝枕されている!?


「わあああああっ!?」

「うわっ!?」


 はねるような勢いで立ち上がると、頭突きされそうになった先輩が慌ててのけぞった。危機一髪だったが、それどころではない。


「な、な、な……、何してるんですかっ」

「何って……、あれ、意外と元気そうだね」


 先輩は私を見てほっとしたようにつぶやいた。


「良かった。いきなり倒れるから心配したよ」


(倒れた……?)


 膝枕があまりに衝撃的で、こうなる前の記憶を呼び起こすのに苦労した。


 時間をかけて、ようやく思い出す。突然襲ってきた事故のような不快感と頭痛に、なすすべもなく意識を失ったことを。


「君のこと、保健室の先生にはごまかしておいたから。うちのクラスの女子たちが、他の女子に似せたメイクをしてからかおうとしてたみたいだってね。雪花が二人いるなんてなったら、後々面倒だからさ。おかげで保健室は使えないわけだけど、我慢して」


 先輩が手振りで座るよう促すので、ベンチの端ぎりぎりに腰を下ろした。

 だまし討ちみたいな形で先輩の元から逃げ出したのに、何でもないように話を続ける先輩に拍子抜けする。


 先輩は、全然怒っていないようだった。それがまた申し訳なさを倍増させた。

 けれど、今更素直に謝る気にはなれない。なんでかわからないが、膝枕のせいかもしれない。


 気まずくて黙っていると、先輩が先に口火を切った。


「……さっきは、ごめん」

「……え?」


 なぜか、先輩が頭を下げている。


「さすがに無神経だった。知らない世界に一人きりなんて、君が一番大変なのに。突き放したような言い方をした。あまりにもデリカシーに欠けた態度だったと、今は反省してる」


 ぎょっとして思わず立ち上がった。先輩には何の責任もないのだ。先輩らしくないしんみりした声が切なくて、胸が締め付けられる。


「なんで先輩が謝るんですか。やめてください。謝らなきゃいけないのはむしろ、私の方で……!」


 私が勘違いしただけだ。先輩には先輩の優先順位があって、そこに私は入っていなかった。ただの他人なのだから当然だ。それなのに、一方的に裏切られた気になった。


 私のことを本気で心配してくれるから、特別だと誤解してしまったのだ。口では突き放しておきながら、心の中では甘えていた。勝手に甘えて、勝手に傷ついて、先輩に八つ当たりした。

 しかも、逆恨みして頭突きまで。あまりの恥ずかしさに、穴があったら入りたいと心底思う。


「あの……ご、ごめんなさい、頭突きとか……。一度ならず二度まで顔を……。頭に血が登っちゃって……」

「……ああ」


 先輩は顎に手を当てると、苦笑いをした。


「あれも俺の落ち度かな。不安で追いつめられていた君を、考えなしにさらに追い込んでしまったんだから。崖の上の真犯人にかける言葉だとしたら、最悪の選択だよ」


 その例え話はよくわからないが、私は「でも」と続けた。


「私、怖かったんです。あんな風に先輩に言っておいて、ちゃんと確かめることもできなかった。私がここにはいないんだって、聞くのが怖くて、逃げてしまいました。下駄箱もなくて、私の机なんかもなくて。これ以上否定されたらと思ったら……」


 怖くて、と続けようとした言葉は声にならなかった。先輩がそっと、私の頭をなでたのだ。


「そんなの当たり前だ。たとえ事実だろうと何だろうと、自分を否定されたら誰だって傷つく。それが怖かったからって、自分を責める必要なんてないんだよ。責めるんだったら、やっぱり俺だな。そもそも、俺がちゃんとしてれば、君がそんな気持ちになることもなかったんだ」


 頭を撫ぜる手のやさしさと言葉の甘さに、すべてを投げ出したくなってしまう。そんな気持ちに必死にあらがった。


「……そんなの、おかしいです」

「おかしくないよ。君は、俺をなじってもいいんだ。こんな目に遭ったのも全部俺のせいかもしれないって、俺を責めたっていいんだよ」


 私は先輩の手から逃れて、一歩下がった。


「そういうの、嫌いです。絶対に先輩のせいじゃないことまで、全部勝手に背負い込むのって、何か違う……」

「そう? でも、絶対なんて言いきれないだろ。もしかしたら本当にそうかもしれない」


「……もし先輩の言うようにそうかもしれなくても、それでも、私の行動は私が決めてるんです。だから、全部が先輩のせいだって言うのは、絶対に違う」

「頑固だなあ……」


 先輩はまた苦笑した。


「まったく、冷たくすると怒るし、優しくしても素直に受け取らないんだから」

「優しいのと甘いのとは違うと思います」

「……厳しいな」


 唇を引き結んだ私を見て、先輩は少し目を細めた。それから、私の前髪に手を伸ばして、そうっと横に払った。


「な、なんですか……っ?」


 なぜこうも脈絡なく心臓に悪いことばかりしてくるのか。図らずも赤くなった顔を背けて、先輩の手から逃げた。


「顔色を見ようとしただけなんだけど。心配すらさせてもらえないとなると、俺は一体どうしたらいいんだ?」

「……心配なんて、そんな必要――」


 適当な言葉でごまかそうとしたが、先輩の苦笑いした顔を見て思い直した。


「……だって、心配するのはしんどいじゃないですか」


 顔をうつむけたまま、続ける。


「先輩は、医者でも科学者でもないんです。心配しても何もできない。先輩だけじゃない。ほとんどの人は、そうでしょう? それなのに、何もできない自分を責めたり、悲しそうな顔をして私に謝ったり……。でも、そんなの嬉しくありません」


 そして私は、心配してもらっても、どんなに親切にされても、何も返すことができない。


「時々、心配される方もしんどくなるんです。そんなしんどい無限ループ、私は望んでないんです」


 お互いが苦しいだけの関係が長くは続かないことを、私はもう知っている。

 近づいたことで痛みを抱え、さらなる痛みを避けて遠ざかる。そんな不毛な繰り返しに、私はもう疲れてしまった。

 心配されることに過剰に反応するようになったのも、その頃。


「……でも、今はそんなふうに走れるんだろう?」


 私の言葉を静かに聞いていた先輩は、落ち着いた声音で言った。確かにその通りなので、頷く。


 自分の思い通りにならなかった体。みんなに迷惑をかけないと何もできない無力さ。

 それが劇的に変わったのは、中学の頃だ。両親が病院の先生と相談して、一か八か、運動部に入部させてみることにしたそうだ。さらに悪化してしまう場合もあるようだが、私の場合は良い方に転がったらしい。


 どこに入るかは自分で選んだ。陸上部を選んだのには、大した理由はない。

 ただ、自由に見えただけだ。


 病院の窓から、自分の部屋の窓から見えた光景。元気いっぱい走り回る小さな子供や同級生たち。自分の体の隅々まで、自由自在に動かし、使う。全身を動かして力の一滴まで絞り切る。

 そんな姿に見とれた。あこがれた。自分もそうなれたらと、願った。


 しかし、最初は練習について行くことなんてできなかった。数え切れないほど倒れて、泣きたくなるくらい迷惑をかけた。みんなには、感謝してもしきれない。

 けれど、そのおかげで体力が付き、今では普通の子と変わらない生活をおくることができる。


「だったらさ、不毛なんかじゃなかったってことだろ。君も頑張って、周りのみんなも頑張ったから、今みたいに元気になれたんだ。今の君があるのは、今まで頑張った全員のおかげだ」

「……でも、結局私が丈夫になっただけで、みんなに返せるものなんてなくて……」

「しつこいな」


 くしゃりと、先輩が私の髪をかき乱す。


「みんな頑張って、その結果がちゃんと出た。お前……、じゃなくて、君はそれを喜ぶだけでいい。引け目なんか感じることないんだ。むしろ、そういう辛気くさい顔してる方が、みんな嫌だと思うけどな。隠してるつもりだろうけど、君は素直に顔に出るしね。だったらもう全部吐き出して、一緒に悩ませてくれる方が断然いい。そうじゃないと、そもそも自分じゃ頼りないんじゃないかとか、余計なことまで考えちゃうだろ」


 全部吐き出して一緒に悩ませてほしい。そうでないと、見守る方さえ、無力さに苦しんでしまうから。


 それは、先輩の気持ちなのだろうか。

 そんなわけない、と思うけれど。

 その言葉は、するりと胸の奥深くに滑り込んだ。


「……失礼ですね」


 私はしばらく逡巡した後、そんな言葉をひねり出した。むっとした声になるよう、注意して声を出す。


 慎重に、深呼吸を繰り返した。唇の震えを知られないよう、そっと。


 そうして、先輩の存在を、心の端っこに無理やり追いやった。そうしないと、先輩が心の中に居ついてしまいそうだった。彼に対する新たな思いが芽生えてしまいそうだった。

 もっと速く走りたいと思うのと同じくらい、贅沢な願いが。


(……やっぱり、むかつく……)


 あんな風にきっぱり線引きをしておいて、すぐにこういうことをするのだから。


「……そういえば、先輩は、何でこっちの私のこと、知ってるんですか? 私は、私の世界の先輩のことなんて全然知らないのに」


 話をそらしたくて、そんなことを聞いてみた。先輩は「保健室仲間だったから」とちょっと笑った。


「彼女、調子がいいときは保健室に来てたからね。俺の方は、昼寝をしに。あそこ、昼寝にちょうどいいんだ。このベンチもだけど」

「……ああ、だからこの場所も知ってたんですね」


 なぜこんな穴場をと思っていたが、もともと先輩のお昼寝スポットだったと知って納得する。


 保健室に顔を出せないのも道理だ。彼も笹井雪花も、私よりよっぽど、林先生と顔なじみなのだろう。

 健康的に日やけした陸上部姿の私に、先生は最初、気づかなかった。この世界の私はきっと、雪の花の名前の通り、透き通るほど肌が白いはずだから。


「君と彼女は別人だけど、やっぱり似てるよ。君たちは、強い人だから」

「…………」


 こっちの笹井雪花を、想像する。


 あの、何一つ思うようにならない日々を、彼女は今もすごしているのだ。

 世界の全てが自分の部屋の中で完結し、ものの色さえ実感を伴わない生活を。窓から眺める平坦な空だけが、外を感じられる唯一のものだった毎日を。


 思い出したくもない過去。けれど、同情は要らない。

 自分の事だから、よくわかる。


 ままならなさにイラだって、耐えて、頑張って、それでもダメで、時々絶望して――。それでもまだ諦めきれずに前を向く。


 だって、それしかできないから。

 諦めないことしか、できない。


「強いわけじゃないですよ。きっと」


 彼女も。私も。

 ただ、みんなが持っている青空を、こうやって手にしたかっただけ。


「……そうかな」

「はい」


 立ち上がり、静かに空を見上げる。空を覆う雲が薄くなったのか、周囲が少し明るくなっている。


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