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第15話

……笹井さん。笹井さん。


(――……、だれ……?)


 暗闇の向こうで、かすかに私の名を呼ぶ声がする。


 聞こえている。けれど、声が遠くて、誰が呼んでいるのかわからない。返事をしなければと思うけれど、のどからは息が漏れるだけで、声が出ない。


「――笹井さん?」


 少し、声が大きくなった。


「……ねえ、聞いてる?」


 ああ、誰かと思ったら陸上部の先輩だ。厳しくて、平等で、入部当初は怖かったけれど、意外に細やかで面倒見のいい人だと、今ならわかる。


「悪いけど、トラックからどいてくれる? あの子達に、本番に近い形で練習させてあげたいから」


 四月に入ってきたばかりの新入部員。その中には、高校から初めた初心者の子もいる。彼女たちはみるみる実力を開花させ、あっというまに私のタイムを追い抜いていった。


 道具の使い方。ストレッチの仕方。みんな、私が教えてあげた。

 けれど、もう、教えてあげられることは何もない。


「――だって、笹井さんは体力作りが目的なんでしょう?」


 頷いたそれが言い訳でしかないことは、他の誰よりも自分自身がよくわかっている。

 でも、肯定しなければ、周りが気を遣う。私がみんなの前で努力したりすれば、さらに気を遣わせてしまう。


 だから、本当はみんなに追いつきたいという、本音を押し殺している。

 苦しみを押し隠して、がむしゃらに練習を繰り返す。

 私は人一倍努力しなければ、人並みにはなれないから。



 ――だから、なのかもしれない。


 感情を殺すのは苦しかった。一人で苦しむのに疲れてしまった。だから、逃げ込んだ。



 私がいた世界から、別の世界へと――……。


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