……笹井さん。笹井さん。
(――……、だれ……?)
暗闇の向こうで、かすかに私の名を呼ぶ声がする。
聞こえている。けれど、声が遠くて、誰が呼んでいるのかわからない。返事をしなければと思うけれど、のどからは息が漏れるだけで、声が出ない。
「――笹井さん?」
少し、声が大きくなった。
「……ねえ、聞いてる?」
ああ、誰かと思ったら陸上部の先輩だ。厳しくて、平等で、入部当初は怖かったけれど、意外に細やかで面倒見のいい人だと、今ならわかる。
「悪いけど、トラックからどいてくれる? あの子達に、本番に近い形で練習させてあげたいから」
四月に入ってきたばかりの新入部員。その中には、高校から初めた初心者の子もいる。彼女たちはみるみる実力を開花させ、あっというまに私のタイムを追い抜いていった。
道具の使い方。ストレッチの仕方。みんな、私が教えてあげた。
けれど、もう、教えてあげられることは何もない。
「――だって、笹井さんは体力作りが目的なんでしょう?」
頷いたそれが言い訳でしかないことは、他の誰よりも自分自身がよくわかっている。
でも、肯定しなければ、周りが気を遣う。私がみんなの前で努力したりすれば、さらに気を遣わせてしまう。
だから、本当はみんなに追いつきたいという、本音を押し殺している。
苦しみを押し隠して、がむしゃらに練習を繰り返す。
私は人一倍努力しなければ、人並みにはなれないから。
――だから、なのかもしれない。
感情を殺すのは苦しかった。一人で苦しむのに疲れてしまった。だから、逃げ込んだ。
私がいた世界から、別の世界へと――……。