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第13話

「――……」


(私の、世界じゃない?)


「この世界にも、君と同じ存在がいるんだ。君じゃない、笹井雪花がね。実は、君と初めて会った日に、スマホで確認をとった。すぐに返事が来たよ。君がウォーミングアップをしていた間にね」


 停止しそうになる頭を、必死で働かせる。ここは、私の世界じゃない。

陸上部に私のロッカーがなかったのも、そのせい。


(……私じゃないもう一人の私……。……そう、か)


 ――だから、ドッペルゲンガーだったのだ。


 先輩に会うたびに聞かれた。確認された。

 私が、彼の知らない笹井雪花だったから。


「こっちの世界の君は、今年の初めに引っ越したんだよ。他にも、細かいところが違っているはずだ。多分、町並みとか、そういうものもさ」

「…………」


 何も答えられなくなった私を気遣うように、先輩は一度口を閉じた。私の理解が追いつくのを待ってくれているのだろう。けれど、思考が麻痺してしまったのか、何の反応も返せない。


「……まあ、いきなりはショックだよな」


 先輩は溜息をつくと、私の背中をなだめるようにさすり始めた。咳き込んでいるわけでもないのになぜこんなことをするのだろう。


「……わけが、わかりません」


 触らないでと言おうとしたのに、予想外の言葉が口をついて出た。行き場がなくてぐるぐるまわっていた感情が、背中を押されて出てしまったのかもしれない。

 一度声に出してしまうと、考える間もなく、次々に言葉があふれて出る。


「私の世界じゃないなんて、そんなわけないじゃないですか……。だって、外国でもないし、違う時代でもないし、学校だって同じだし……! そんなの、夢だとか、私の記憶がおかしいんだって、そう言われた方が信じられる……!」

「……うん」

「さっきまで、ただ、陸上の練習してただけなんです! もう、時間が無いんです! それなのに、なんでそんなことになったって言うんですか!」


 八つ当たりだとわかっていたが、堰を切ったように出てくる言葉を止められない。先輩が何も言わないのをいいことに、私は口が動くにまかせてしゃべり続けた。


 大会が近いのに記録が伸びなくて悩んでいること。自分は普通以上に頑張らなければみんなに追い付くことはできないこと。

 それなのに、突然先輩が現れて、なぜか調子を狂わせることばかりする。練習に集中したいのに、できない。先輩が何を考えているのかわからない。


 無意識に原因を探していたのかもしれない。ここ最近の出来事や考えたことを全部はき出したら、幾分か気分が落ち着いた。息を整えてから先輩を見ると、彼はなぜか傷ついたような顔をしていた。


「……すみません。わけ、わかんないですよね。先輩には関係ないことなのに、なんか、止まらなくなっちゃって……」

「気にするなって。混乱するのも当然だし、俺だってたぶん、同じ気持ちだ。何がどうなってるのか、わけがわからない」


 先輩は首を横に振った後、「でも、問答雲か……」と、ぽつりとつぶやいた。


「え?」

「いや、君の話を聞いていて、ちょっと気になったんだ。空港で俺と会ったときって、いつも問答雲が出てたのかな?」

「……それは……」


 どうだっただろうか。


 雨が降る予兆と聞いて気にはしていたが、それと先輩と会った日を結びつけて考えたことはなかった。


「……覚えて、ないです。何回か見た気はしますけど、毎回かって聞かれたら、ちょっと」

「そっか。まあ、そうだよな。……ああ、そんな気にしなくていいよ。ただ、俺が君と会ったときは、二回とも問答雲が出てたんだ。だから、君の方でもそうだったら、一つ仮説が立てられる、と思ってさ」

「仮説、ですか?」


 先輩は頷いてから、灰色の空を見上げる。


「問答雲の説明は俺がしたんだよね? 違う高さの雲が、違う方向に流れていく。高さと方向がずれている雲のこと。――だけど、じゃあ、もし、ずれているのが雲ではなく、世界そのものだとしたら……?」


 重く立ちこめる雲を透かして、その向こうにあるはずの青い空と、白く輝く重なりを見つめる。


 あのとき空に描き出された模様。

 あれは、本来は問答雲ではなかった?

 雲の流れがずれて見えたのは、世界がずれていたせい?


「例えばの話。問答雲がすれ違う角度分だけずれた、二つの世界があるとする。その別の世界が、問答雲が現れるわずかな時間だけ……、いや、逆か。二つの世界が、なんらかのきっかけで一瞬だけ交わるんだ。そしてその証が、問答雲かもしれない。それぞれの世界では一方向に流れる雲が、二つの世界が交わる瞬間に交差する。重なり合って見える。……そして、それは雲だけじゃない」


 重なり合うのは、雲だけでなく。

 見えているのも、雲だけではなく。

 そうやって――、違う世界の、二人が出会った。


 その結果がこれだとしたら。


「……、すみません。先輩を疑ってるとかじゃないんです。でも、本当にそんなことが……?」

「やっぱりこんな話、信じられない?」


 私はこくんと頷いた。

 ここまで説明してもらって、先輩の言わんとしていることはわかったと思う。


 それでも、まだ、信じられない。

 というより、信じたくないのかもしれない。

 きっと、決定的な何かがない限り、私の心は抵抗し続ける。


「――そうだ。誰かに、会わせてもらえませんか?」

「…………」


 私の思いつきに対して、先輩は視線だけをこちらに寄越した。


「絶対、あり得ない誰か……。あ、私なら! こっちの私と会えたら、さすがに信じられると思います」


 良い考えだと思った。けれど、先輩はあっさりと首を横に振った。


「悪いけど、それはできない」

「ど……、どうしてですか!? だってさっき、私とスマホでやりとりしたって」


「不可能って意味じゃないよ。今すぐは無理でも、時間をかければ、無理じゃない。ただ、そうじゃなくて、危険なんだ。君は、ドッペルゲンガーのことは知らないんだったね。都市伝説みたいなものだけど、自分と生き写しの人間のことをそういうらしい。そして、それに出会ったら、近いうちに死んでしまうって説がある。俺も今まではそんなの眉唾だと思ってたけど、実際君に会ってしまうと、その可能性もゼロではないって気がするだろ?」

「そ……、そんなの、信じるんですか? 出会ったら死んじゃうなんて、それこそ意味不明じゃないですか」

「意味不明だろうとなんだろうと、可能性が一ミリでもあるなら、そんな危険は冒せない。こんなことで雪花がいなくなるなんて、俺は絶対に許せない」


 切って捨てるような言い方に、愕然とする。

 取り付く島もなかった。私の意見を受け入れてくれることなんて微塵もなさそうな先輩の態度に、言葉が出なくなる。


 彼が言う「雪花」とは、私のことではないのだろう。

 この世界の雪花が死ぬ危険があるから、私とは会わせられないと言っているのだ。


 ……でも、考えてみれば当然だ。先輩と私は、文字通り住む世界が違う。先輩の世界には、先輩の世界の私がちゃんといる。誰が考えたって、私よりそっちを優先する。


 それなのに、先輩に断られたことにショックを受けている自分がいる。

 ほんの数回あっただけの他人。接点なんてほとんどない、ただの先輩。

 そんな人に、いつの間に私は、こんなにも甘えていたのだろうか。


「あ、あはは……。私、情けないですね……。なんだかんだ言って、全部、先輩に頼りっぱなしで」


 声が震えてしまった。

 あれ以来、誰にも頼らないでやってきたのに。これ以上みんなに迷惑かけないように、一人で頑張ってきたのに。


 こんなにもろい。一瞬で崩れてしまう。ちょっと優しくされただけで。


「勘違いしてしまいました。先輩はただ、私がここで余計なことしないように、監視してただけだったのに……!」


 先輩をなじるような言葉が勝手に口から出てしまった。こんなこと、言いたくないのに止まらない。

 先輩が眉根を寄せた。


「雪花。違う」


 何が違うというのだろう。彼が「雪花」と呼ぶとき、思い浮かべているのはきっと、私ではない、私なのに。

 私は、先輩に背を向けて言い捨てた。


「やめてください。これ以上、勘違いさせないで」

「落ち着いて。雪花――」


 後ろから近づき、なだめようとしてくる先輩にカッとなった。少しだけ振りむいて体当たりをし、そのまま踵を返して走り出す。


「――っ!? くっ……、この、頑固者が……!」


 予期せず私の頭が先輩のあご付近にヒットしたらしい。私の頭もじんじん痛んだが、肩越しに確認すると、先輩の方は顔を抑えて痛みをこらえているようだ。


 逃げるのには成功した。けれど、先輩が本気を出したらすぐに追いつかれてしまう。


 私は体育館を回りこんで先輩の視界から外れると、先ほどまでいた部室の窓を外側から強く押した。

 建付の悪い窓のカギは、軽い衝撃とともにあっけなく外れてしまう。私は急いで窓を開け、体を室内へと滑り込ませた。そして、靴と靴下を脱ぐと、はだしで廊下へ走り抜けた。


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