にわか雨だったのか、屋根の下で雨宿りしていると、まもなく雨が上がった。濡れた髪や服をどうするかという話になり、先輩の提案で学校へ向かうことになった。
自転車で学校へ戻るときも気はそぞろで、先輩の背中を何度も見失いそうになった。おかげで、学校に着いて女子陸上部の部室に入る際は、目をつぶってついていこうかと提案されたくらいだ。
静かな部室で、一人、周囲を見渡す。
午前中に来たばかりだというのに、この部屋からもまた違和感がぬぐえない。どこか、よそよそしさを感じてしまう。
部屋の狭さも、ロッカーの配置も変わっていないのに不思議だった。曇りガラスがはめられた窓の建付の悪さも、記憶にあるのと相違ない。
なんともいえない気持ち悪さを抱きながら自分のロッカーを開けて、腑に落ちた。
見覚えのない私物。たたみ方の違うユニフォームやなじみのないにおい。
心臓がぎゅっとしめつけられた。これは私のものじゃない。いや、私のロッカーそれ自体が、ここには存在しないのだ。
昇降口でも、そのことは思い知らされた。上履きに履き替えようとしたとき、そこに私の下駄箱はなかった。出席番号順で並んでいるはずのそれに、十六番目の私を飛ばして、十七番目の佐々木さんの名前が貼ってあった。
(本当に、何が起こったっていうの……)
いるはずなのに。存在しているのに。それなのに、私の存在が過去形でしか見えてこない。
それが示唆することに意識を向けてしまったら二度と立ち上がれなくなりそうで、私は首を横に振って嫌な想像を追い払う。
仕方なく、友達のロッカーからドライヤーを借りる。陸上部はロッカーに名前を書かれないから、位置的に考えて、彼女のものだろうと思っただけだけれど。
ふと、李果のことが思い出された。
先ほど電話した時の李果は、私の知っている李果ではなかった。陸上部のみんなは大丈夫なのだろうか。異変が起こっているのは、私だけではないのだろうか。
髪や服を乾かしながら、心細さに気分がどんどん沈んでいく。唯一の救いは、先輩が一緒ということだけだ。
その先輩は、一足先に廊下で待っていてくれた。ジャージに着替えるのかと思ったが、私と同じようにドライヤーで服を乾かしたらしい。先ほどまでと同じ服装で立っていた。
体育館裏にあるベンチに案内され、そこに並んで腰掛ける。先輩が言うには、体育館の屋根のおかげであまり雨はかからないし、警備員からも、見回りの先生からも死角になる場所だそうだ。
「俺も、全部わかってるわけじゃないんだけどさ」
先輩はそう切り出すと、一度、考えるように口元に手をやった。
「先に一つだけ確認させて。君が、俺と会うのは何回目?」
なぜそんなことを聞くのかわからなかったが、真剣な表情をしていたので大人しく答えた。
「四回目、です」
「そう」
先輩は、特に驚いた様子もなく頷いた。
「俺は、君と会うのは二回目だ」
「え……」
思わず眉間にしわを寄せた。知らないふりではなかったのか。やっぱり忘れただけなのか。
しかし、先輩は私の心を読んだかのように、こう付け足した。
「言っとくけど、忘れたわけじゃないよ。俺、記憶力はいいからさ。……ああ、言いたいことは大体想像つく。でも、いったん、聞いてほしい。俺は二回しか会ってないけど、だからといって、君が勘違いしてると思ってるわけじゃない。二人とも、正しいんだと思う。――君は、確かに会ったんだろう。この世界の俺じゃない俺に」
「え……?」
(俺じゃない、俺?)
先輩の言葉が理解できない。何を言っているのか判らない。
何も反応できずにいると、先輩は、「これは俺の憶測なんだけど」と前置きをして、続けた。
「ここは君にとって、パラレルワールドじゃないかと思うんだ。……と言っても、確信があるわけじゃない。正直、俺だってわかんないんだ。あまりに荒唐無稽な話で、冷静になって考えると、そんなわけあるか!って自分でも思うんだけど」
「……は?」
(今、なんて?)
目が点になる。突拍子もない言葉を紡ぎ出した目の前の人を、思わず正気かと疑った。そんな私の顔を見て、先輩が苦笑する。
「まあ、そんな顔する気持ちも判るよ。君は知ってるかな? パラレルワールド、別名、並行世界。世界は無数に存在していて、誰かが何かを選択する度に、分岐して無限に増殖していくっていう考え方。でも、そんなの、ファンタジーだよな。俺もこんな真面目な顔して言う時が来るなんて思わなかった」
「……」
聞いたことだけなら、ある気がする。
私達が存在している世界以外にも、同じような世界がたくさん存在している。それぞれの世界は、他の世界とちょっとずつ違っていて、例えば、ここでは私は陸上部に所属しているけれど、他の世界では李果のように美術部に入っていたり、もしくは、男子だったりするかもしれない。
可能性の数だけ存在する。それが、パラレルワールド。
しかし、それはフィクションの世界での話だろう。先輩だって、自分でそう言っている。
「でもさ、もしそういう世界が存在するとしたら、一応説明は付くんだよ。君が会った他の俺は、違う世界の俺だった。つまり、君が相原向貴だと思っていた人間は、いろんな世界の俺の寄せ集めだったってこと」
「……そんな……」
混乱する私に向かって、先輩は優しくほほえんで付け足した。
「変だとは、思わなかった?」
「それは……!」
変だとは、もちろん思った。だって、毎回、私とは初対面のような反応をした。
正直、あれは少し傷ついた。だから、先輩が忘れっぽいから仕方ないのだと、無理矢理思い込んでいたのだ。
けれど、もし、本当に初対面だったとしたら。
「……でも、それじゃあ、やっぱりおかしいですよ。先輩は、いつもあの公園にいたし、持っている本も同じでした! 違う世界っていうなら、そこまで同じっていうのは変でしょう!?」
「……いつも、あそこに?」
先輩はそこで
(あれ? ……待って。この世界の俺……って、ことは……?)
ぎょっとして、辺りを見渡す。体育館。校舎。グラウンド。部室……。
どこも見覚えがある。そして、どこか、微妙に違和感がある。
先輩が私の様子に気がついて説明してくれる。
「きっと、君が会った俺はここと近しい世界のやつなんじゃないかな。ほとんど同じで、でもきっと、些細なところが違うんだ。だから、君が会っていないだけで、俺がそこにいない世界だってどこかに――」
「ま、待って下さい!」
焦燥感に駆られて、先輩の言葉を遮った。
「さっき、先輩、言いましたよね。この世界の俺――って。……その言い方だと、ここは……」
「――うん」
先輩は気遣わしげに私を見やると、少し固い声音で言った。
「多分ここは、君がいた世界じゃない。君はきっと、何かの拍子で紛れ込んでしまったんだろう。他の世界――俺のいる世界にさ」