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第10話

 ……額に汗が噴き出る。


 生暖かい風が全身にまとわりつく。日光がじりじりとむき出しの肌を焼く。

 それら全てが煩わしくて、脇目も振らず自転車をこいだ。無我夢中で足を動かし、空港から遠ざかる。


 焦りと悔しさと罪悪感で、わけがわからなくなりそうだった。

 先輩が本気で心配してくれているのはわかっている。たとえ、それが一時的なものだったとしても。


 ……ありがたいと、思っている。


 一時的なのは当たり前。だって、私はただ数回会っただけの下級生なのだから。彼にはなんの義務も責任もない。それなのに、私が熱中症になりかけたとき、真剣に看病してくれた。


 そう。心配してくれるのは、ありがたいことなのだ。私だって、できればその気持ちにこたえたい。李果や先輩の優しさを受け取ってその通りにしてあげられたら、そんな嬉しいことはない。

 けれど、その気持ちに応えるには、私の体は弱すぎた。

 ベッドからろくに出られなかった私の体。陸上部の練習なんて、一日一日が拷問のような苦しさだった。だが、苦しいからといってそこでやめていたら、こんな風に人並みに走れるようにはなれなかった。


 無理をしなきゃいけないときもあるのだ。無理をしなきゃ普通に生活できない人間もいるのだ。私の体は、まだ限界は来ていない。それなのにこのまま大会を迎えたら、一生悔やみ続けるだろう。


 それに、大会以外、いや、それ以前の悩みがあった。

 今年の春から、記録が全然伸びていないのだ。他の部員たちのタイムは、多かれ少なかれよくなってきているのに。このままでは、他の部員との差は開き続ける一方だ。

 いつか、いや、もしかしたら明日にでも、追いつくのが絶望的に思えるほどの差をつけられるかもしれない。ただでさえ劣っている私がみんなに追いつくには、彼女らの倍は練習しなければならない。


 だから、ちょっと体調が悪いからといってやめるわけにはいかない。先輩の優しさを踏みにじったとしても……。


 ――気がつけば、曲がるはずの道を通り過ぎていた。


 どうやら、大通りをひたすら走り続けていたらしい。周囲が薄暗くなっていたので空を見上げると、不気味な黒く重苦しい雲が一面に広がっている。今にも雨粒が落ちてきそうな雰囲気だ。


 回れ右をし、ペダルを踏み込んで十字路まで戻る。今度は間違えずに角を曲がった。


 ……そのはずだったのだが。


「……?」


 いつもの帰り道。今日も通ってきた風景。けれど、どこか違和感があった。 それが何か判らないまま、家まで走る。


 自宅のある場所に着いた。そして、自分の目を疑った。


「……売物件……?」


 自転車を降りて愕然とする。目を強くつぶってから、もう一度見直す。

 何の変哲へんてつもない二階建ての一軒家。私が生まれたときに、建売で購入したものだと聞いている。


 間違いない。間違っているはずがない。私の家だ。およそ一時間前までここにいた。茶色い屋根も、卵色の壁も、通りに面した一階と二階の窓の形も、見慣れたはずの自分の家。

 けれど、窓にかかっていたはずのカーテンがなくなり、代わりに白い紙のようなものが内側から貼られていて、室内が見えないようになっている。


 門からは表札がなくなっていた。「笹井」と毛筆タッチで印字されていたプレートが、きれいに剥がされている。


 焦燥感に駆られ、門扉を開けて中に飛び込んだ。雑草がやたら伸びた短いアプローチを抜け、玄関の扉の前に立つ。

 震える手で鍵を取りだし、鍵穴に差し込む。開かない。底知れぬ不安が足下から這い上がってくる。何度目かの試みで、鍵が手からこぼれ落ちた。コンクリートの地面に衝突し、か細い金属音を立てる。


「――……」


 わからない。何がどうなっているのだろう。


 奥の方には、庭が見えた。

 私の体のためにと薬草ばかり集め、丹精込めて世話していた母の庭。

 それが、はびこる雑草に埋もれて見る影もなくなっている。呆然としながら、目が無意識に生活の痕跡を探していた。


 父は単身赴任で、母は仕事中だ。だからこの時間、家が無人なのはいつものこと。だけどこの無機質さは。


「あ……、スマホ……」


 家族に連絡を取ることをようやく思いつき、のろのろと鞄の中をまさぐった。頭がぼんやりしているせいか、目当ての物を探り当てるのに時間がかかった。なんとか見つけて取り出すと、その拍子に、小さな物がころりと落ちた。


(――ああ、なんだ、校章か)


 部活で着替えたときにでも取れたのだろう。夏休みに入ってから制服を着る機会がなかったので気づかなかった。

 危ないのでピンをはめてジャージのポケットにしまい、ついでに落としたままだった鍵も拾った。なぜ鍵が入らないのか、すべて、スマホで聞けばわかるはずだ。


 すぐに両親に電話をかけた。どちらも出ない。出ないというより、通じない。電源が入っていないのだろうか。

 一応、自宅の固定電話にもかける。――だめだった。こちらは少し、予想していた。中からコール音が聞こえないかと淡い期待もしてみたけれど、そんな気配は全くなかった。


(だったら……!)


 李果のスマホに連絡してみる。親友の李果なら、何か事情を知っているのではないか。

 数回、呼び出し音が鳴り、それが止まって、「はい」と声が聞こえた。


 懐かしい。会っていないのは数日だというのに、何年も声を聞いていなかったかのような感じがして、スマホを強く握りしめた。今、頼れるのは李果だけだ。彼女より仲のいい友達なんていない。陸上部の仲間も、部活の用事以外で電話したことはない。


「急に電話してごめん、李果! でもね、ちょっと確かめたいことがあって――!」


 李果にすがる気持ちでいっぱいだった。だから、その硬質な声に気が付くのが遅れた。


「ちょ、ちょっと待って。あの、ええと……、誰?」

「あ、ああ、ごめん。私、雪花だけど。実は今、急いでて、話聞いてもらいたくて」

「せつか? さん? あの、すみません、私、ちょっと、覚えがなくて……、えっと、何かで一緒でしたっけ……?」

「え……」


 私は思わずスマホの画面を凝視した。何か、おかしい。


「……李果? 何、言ってるの?」


 ふざけているのかと一瞬思ったが、李果の声音は真剣だった。それに、そんな悪ふざけをするような性格ではない。


「あの、ごめんなさい。本当にわからなくて。……あの、苗字は……、あ、それより、なんで私の番号知ってるんですか?」


(なんで? なんでって……)


 呆然として、スマホを取り落としそうになった。頭は全く働かなかったけれど、口だけはなんとかぎこちなく動かす。


「……笹井、雪花。中学の時、同じクラスになって……」

「笹井、さん……? ああ、病気でずっと欠席してた……。え、でもなんで、私のスマホ……。接点とか、なにもなかったよね?」

「――」


 言葉が出てこなかった。李果が本気でそう思っていることがわかったのだ。

 電話の向こうの彼女にとって、私は中学で話をしたこともないクラスメイトにすぎない。なぜか、どうしてかわからないけれど、李果はそう思っている。


 じゃあ、私が友達だと思っていた李果は?

 同じ高校に通って、この間まで一緒にいた李果は?


 ……どのくらい放心していたのだろう。いつの間にか通話は切れていた。頬にぽつりと雨粒が落ちて、ようやく思考が回復した。


 わけのわからないことばかりだった。何が起こっているのだろう。それとも、私がおかしくなってしまったのだろうか。


 しかし、ここでこうしていても始まらない。とにかく、家の中に入ってみようと思った。非常事態だし、窓ガラスを割るくらいは許してくれるだろう。地面に目をこらして、手頃な大きさの石を探す。


 ふたを開けてみたら、何でもないことなのかもしれない。何かのサプライズとか、業者のミスとか。中に入りさえすれば、きっと全て解決する。電話が通じないのは故障だろう。李果は誰かと間違えたのだ。休みがちだった私と、全然登校できなかった誰かを混同して、あんな勘違いをしてしまった。

 近所の建物が違うように感じたのは、私の体調が万全じゃないからで――……。


 自分でも、無茶な言い訳だとわかっていた。けれど、他にどう説明がつけられる?

 手のひら大の石を持ち上げたとき、ぽんと、肩を叩かれた。ぎくりとして石が手の中から転がり落ちる。


「――そこは、君の家じゃないよ」



 私の背後に、相原先輩が立っていた。


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