なんだかだるい。連日の暑さで疲れが出てきたのだろうか。
珍しく走りたい気分ではなかったが、昨日も今日も問答雲が出ていた。今日練習を休んだとして、明日天気が崩れたら、絶対に後悔するだろう。
そう思って空港に足を向けると、もう一つ、珍しいことがあった。先輩が私の名前を覚えていたのだ。
しかも、「雪花! また会えたね」と嬉しそうに言うものだから、小さく心臓が跳ねた。
「……やっと、私の名前覚えられたんですね」
つい、ひねくれた言葉が口を突く。
「やっと? いやいや。俺は、記憶力いい方だけど?」
「どこがですか」
今までの体たらくでこの自信。本当に変な人だと思いながら、いつもより重く感じる体を念入りにストレッチする。
肩、腕、腰、そして足首。次に開脚してももの裏を伸ばしていると、先輩が目の前に来てしゃがみこんだ。何事かと思う間もなく、私の額に手のひらをあて、そのまま前髪をぐいと押し上げる。
「え、なっ……?」
動揺して頬が赤くなりかけたが、次の言葉でむしろ青ざめた。
「なんだか、顔色悪くない?」
「――っ!」
反射的に顔をそらした。しまった、と思ったがもう遅い。案の定、先輩が目つきを険しくする。
「自覚ありか。そんな体調で今から走るつもり?」
「べ、別に具合悪くなんか……。日陰だから暗く見えるだけでしょう」
私の苦しい言い訳は、先輩には通じなかった。それどころか、さらに身を寄せてきて顔をガッチリ固定される。正面から見つめ合うかたちになり、一瞬にして顔に血が上る。
「だっ……、だから、近――」
「俺の目をごまかそうなんて百年早いよ。ほら、日陰とか関係ない、やっぱり顔色が……、あれ? むしろ青っていうより赤い……?」
「さ、さわるなーーっ!」
あまりの近さに耐えられず、先輩の顔に思い切り張り手をかました。彼はバランスを崩して尻餅をつき、一方私は、木の幹の後ろに逃げ込んで距離を取る。
「せ、セクハラです! 訴えますよ!」
「いてて……。そこまで嫌がらなくてもな……」
先輩は顔を押さえてうめいている。それを見て遅ればせながらひやりとした。イケメンの顔に傷なんてつけたら、李果に怒られるかもしれない。
「ちょっとひどくない? 具合悪そうだから心配しただけなのに」
「じ、自分の体調は自分でよくわかりますから!」
「……そうだろうな。自覚、あるんだもんな。だったら、意地になるのはやめたら?」
真面目な顔で断定されて、私の方が絶句した。たった数回会っただけなのに、なんでこんな見透かすようなことを言うのだろう。
「だ、誰も、意地になんか……! 明日は雨かもしれないんだから、今日は休むわけにはいかないんです!」
「雨? そうなの?」
「だって、問答雲が出ていたんです」
その一言で通じると思ったら、先輩はきょとんとしている。私は今度こそ腹が立った。
「問答雲が出たら天気が崩れやすいって教えてくれたの、先輩じゃないですか」
「え? 俺が?」
「そうですよ!」
怒りにまかせて準備体操を終え、スタートの位置に歩いて行く。先輩が追ってくる気配がしたが、振り向かない。
「勘違いじゃないか? 俺は問答雲の話なんてしたことないけど」
「~~っ! もういいです!」
名前を憶えていてくれて、見直したとたんにこれだ。きっと、この人の心配もお節介も、この場限りのものなのだ。真面目に受け取ったら馬鹿を見る。
これ以上話していたくなかったので、彼を振り切るために呼吸も整えずスタートを切った。
しかし、腹が立つことに、先輩はなんなく追いついてきた。がむしゃらにスピードを上げて引き離そうとした私の腕を、先輩がつかんでひきとめてくる。
「止まるんだ。ほら、足がもつれてるだろ。手も冷たいし、こんな状態じゃケガするだけだ」
有無を言わせぬ強い口調に一瞬ひるむ。それが悔しくて唇を噛んだ。
「……離して下さい。先輩には、関係ない」
「関係ないわけないだろう。陸上部なんだよな? 大会が近いんじゃないのか。だったらなおさら、こんな無茶な練習の仕方は」
「――大丈夫だってば!」
自分でも思ってもみなかったほどの大声が出た。ハッとして先輩を見やると、彼も驚いたのか、目を見開いて動きを止めている。
いたたまれなくてきびすを返した。先輩の引き留める声を無視して荷物をまとめ、部活用の鞄に押し込める。
「――雪花っ!」
先輩が私の鞄をつかんだ。私はそれを思いきり振り払う。
「離してっ!」
その際、ぷちんという小さな音がしたが、私は先輩から逃げることで頭がいっぱいで、そのまま振り向くことなく自転車に飛び乗った。