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第8話

 待ちに待った晴れの日が来た。

 ようやく外で体を動かすことができる。少し走っていないだけで、感覚が鈍っていることを実感する。


 意気揚々と空港へ出かけた。先輩に会えば、気がかりだったことも解消できて、心置きなく練習に集中できるだろう。

 それなのに、彼は一向に現れなかった。


 次の日も。

 その次の日も。


 受験生なのだから、毎日来る方がおかしいのだろう。そう思うが、一抹の不安が心をよぎる。


(……まさか、あのまま、どこかへ消えてしまったんじゃ……?)


 そんな益体やくたいのないことを考えていたから、いざ先輩に会えたときは、自分でも驚くほどほっとした。


「あっ……、相原先輩!」


 木陰でまどろんでいた先輩が、突然の大声にびっくりして飛び起きた。


「うわっ! な……、なに!?」

「あっ、すみません」


 無意識に指さしていた右手を下ろし、素直に頭を下げる。すると、彼はさらに目を見開いた。


「お前、なんで……?」

「……」


(お前ぇ?)


 三回会っただけでお前呼ばわりか。

 安堵の感情が一息に苛立ちに塗り替えられる。そういえば、何回か呼び捨てされた気もするし、ちょっと顔がいいからって調子に乗りすぎではないだろうか。


 ――まあ、頭と運動神経もいいんだろうけど。


 あ。やっぱりむかつく。


「あー……、えーと?」


 渋面になった私を見て、先輩が眉間に手をやった。何か記憶を掘り起こそうとしているが、起きたばかりで頭がうまく回らないといった感じだ。二日酔いの担任が、よくこんな仕草をしている。


「笹井雪花……って子に、似てる」

「……むしろ、それ以外の何に見えます?」


 冷ややかな言葉と視線をその眉間に返す。


 なぜこうも簡単に私のことを忘れるのだろう。

 そんなに印象が薄いのか。それとも、女の顔なんてみんな同じに見えるのか。


 まあいい。久しぶりに会えたのだ。こんな暑い時に昼寝なんかしているから、きっと記憶を失ったのだろう。そういうことにしておく。


 あの日あの後どうしたかとかも聞くタイミングを逃してしまったが、どうでもよくなってしまった。

 実際、消えたわけじゃなかったし。


「私、今日は坂ダッシュするんで。タイムとか計らなくていいですから、邪魔しないで下さいね」


 またスマホを操作し始めた先輩に向かって、練習前に釘を刺す。すると、


「えっ……、ダッシュだって?」


 先輩はぎょっとして手を止めて、私の顔を穴が開くほど見つめた。

 険しい表情にうろたえるより先に、体温が急上昇していく。近すぎる。まっすぐすぎる。強制的に目を防ごうかと両手を上げたとき、先輩が問いを重ねた。


「そんなに激しい運動をして大丈夫なのか? 体は、もう……!?」

「え」


 またか、と思った。けれど次に、なぜだ、と思った。

 気持ちが揺れたせいで、勝手に頭の中に映像が浮かんだ。昔の自分の部屋の映像だ。


 子供の頃の私は体が弱く、めったに外に出ることができなかった。部活をするようになってからは体力がつき、今では普通に生活できるようになったのだが。

 けれど、そんなこと、先輩が知るよしもない。きっと先日、熱中症になりかけたことを言っているのだろう。


「ああ、はい。ちゃんと水分はとりますから」


 そう一言告げて、準備体操にうつる。しかし、先輩の心配そうな視線がむき出しの肌に突き刺さる。やりづらいことこの上ない。


(李果といい先輩といい、心配性なんだから……)


 仕方なくウォーミングアップを途中で切り上げて、目星をつけていた練習場所に移動した。公園と空港をつなぐ階段の脇に備え付けられたスロープの勾配が、ちょうどよい角度なのだ。しかも、先輩のいる木陰からは遠くて見にくい位置にある。


 しかし、私の練習中、先輩は飽きもせずにこちらを注視していた。それだけならまだしも、休憩をするたびにあれこれと話しかけてくる。


 具合悪くないか。どこか苦しくないか。もうその辺でやめたらどうだ。


 私は呆れて溜息をついた。


「……先輩。今日は一段と心配性ですね。大丈夫ですってば」

「でも、部活は部活でちゃんとやってるんだろ。練習過多なんじゃないか?」

「余計なお世話です」


 それ以上は聞こえないふりをして、私は練習に戻った。


 心配されるのは苦手だ。よく知らない人からのそれはなおさらだ。

 やっぱり、練習は一人の方がはかどる。先輩に会えて安心しただけでなく、嬉しさまで感じてしまったのはきっと気のせいだ。

 走り終えた後、声をかけられるのを待ってしまうのも、今日だけ。



 ――けれど、練習場所を変える気はすでになくなっていた。


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