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第6話

 暑さが少し和らいだころ、いつものように空港へ向かう。

 昨日より遅めに家を出たのだが、残念なことに、くだんの人物の姿もあった。時間をずらしたかいがない。木陰に陣取って、木の葉の隙間から空を仰ぎ見ているようだ。


 私はこっそりと建物の裏に回り、そこに自転車を停めた。先輩から見て、ここは死角になるはずだった。音を立てないよう、息をひそめてストレッチを行う。

 今日は昨日とはコースを変えて、公園の外周を走ることにする。タイムは計らず、体幹を鍛えることを目標にする。疲れやすくて、走っているうちに上体が立ってしまう癖を直すのだ。


 このまま先輩に気づかれないといいのだが。


 実際、走り始めて十分経っても横やりが入らないので、いつの間にか彼のことは頭から抜け落ち、ただ無心になって前に進み続けた。


 走行距離も決めず、時間が許すだけ、走り込む。

 皆の何倍も、私は走らなければ。

 もっと。もっと。もっと――!


「――雪花?」

「――っ!?」


 名前を呼ばれて、我に返った。

 どのくらい時間が経っていたのだろう。


 時間の感覚だけでなく、視覚まで狭まっていたようだ。いきなり視界が広くなった。同時に、セミの奏でる合唱が両耳に押し寄せる。

 太陽がじりじりと大地を焼き付けている。草いきれが湿度とほこり臭さを増して、そよとした風に乗って首元にからむ。重苦しい空気にむせそうになって気がついた。水分を出し尽くして、口の中がカラカラだ。


 かすれた呼吸を繰り返し、のろのろと首を巡らすと、唖然とした表情の先輩が立っていた。公園の中央付近にいたはずなのに、なぜこんな端まで寄ってきたのだろう。


「え、本当に……? でも、その格好は……」

「……え?」


 呆気にとられたように私を見つめる彼の目つきにデジャヴを感じる。気のせいか、昨日も似たような反応をされたような。

 私の不信感を悟ったのか、彼はすぐに笑顔をつくって爽やかに言った。


「あのさ、不躾ぶしつけで悪いんだけど、名前、教えてくれる?」

「…………」


 気のせいじゃなかった。つい昨日のことなのにもう忘れたというのだろうか。けれど、没頭している間は感じなかった疲労感に襲われて、抵抗する気も起きない。


「雪花って……、今、呼んでたじゃないですか」


 予想外にかすれた声に自分で驚いた。何か考え込んでいた先輩も私の様子に気づいたようだった。


「うわ、君、どれくらい走ってたんだ? とにかくちょっと休憩して。ほらほら!」


 先輩の行動は早かった。私を木陰まで連れて行き、そこに横たわるよう促した。「これ君の自転車?」と、私の荷物をあさって水筒を探し出すと、有無を言わせずそれを私の口に押しあててくる。


 認めるのは癪だが、おかげで少し楽になった。熱中症になりかけていたのかもしれない。私はしばらく目をつぶり、体力を回復することに専念した。

 その間、なぜか先輩も一緒にいた。隣に座ってスマホをいじっていた彼は、一段落付いたのか、次に、本を読み始めた。正直、どこかへ行ってくれた方が落ち着くのだが、世話をしてもらった手前、そんなこと言えない。


 まあ、眠っていれば気を遣う必要もない。目をつむっているふりをして、薄目で彼を盗み見した。


 私を知っているかと思えば、知らないふりをする。おせっかいなのかと思いきや、突然ほったらかしにする。

 変な人。変な人だけれど、李果が騒ぐのもわかる。


 長めに伸ばした前髪が、風になびいている。さらりと肌をなで、文字を追う真剣な瞳に影を落とす。

 思わず見とれていると、先輩が顔を上げて「あ」とつぶやいたので即座に目を閉じた。


「飛行機だ」


 声につられて、つい目を開けてしまった。


 空気を振るわせながら、遙か上空に見える機影。どこか他の空港に向かう便なのだろう。オレンジ色の夕日がときおり機体に反射し、私達の目をくらませる。先輩が右手をついと伸ばし、空の一点を指さした。


「あれ、なんていう雲か知ってる?」

「……え?」


 飛行機を見ているのではなかったのか。

 彼は夏におなじみの入道雲ではなく、複雑に絡み合っている雲に人差し指を向けていた。


「えーと、ほうき雲、ですか?」


 自信がないので首をかしげながら答える。すると、先輩は一つ頷いた。


「うん、あたり。あの片方がハケで佩いたみたいになっているかすれたようなのがほうき雲。空の一番高い場所で、風が強いときにできる雲だよ。それで、あの辺がさ、二種類の雲が重なっているように見えない?」

「え? ……ああ、そうですね」


 彼が指し示す二種類の雲は、大体四十五度くらいの角度で交差しているように見える。それぞれぶつかって壊れることはなく、すれ違うようにして異なる方角へ流れて行く。


 先輩は本を置き、両手の人差し指同士を交差させて、その角度を再現してみせた。


「あれは問答雲もんどうぐもって言ってさ、高さと風の向きが違うと起こる現象なんだ。ちなみに、問答雲が出ると雨になりやすいって言われてる」

「へえ……」


 なんでこんな話になっているんだろう。

 首をかしげながら、問答雲、と口の中でつぶやいてみた。不思議な名前だ。聞いたこともない。でも、雲自体はそんなに珍しいものではないのかもしれない。

 だって、昨日もこんな感じの空模様だったから。


「雨になりやすいんですか? でも、昨日も今日も、晴れましたけど」

「ああ、昨日の空もこんな感じだったんだ? でもまあ、参考程度にでも覚えておくといいよ」


 その後も、先輩は雲の名前をいくつか教えてくれた。雲間から差し込む光条は「天使のはしご」。雲が虹色に輝く「彩雲さいうん」。太陽の周りにできる光の輪の名前は「かさ」。


 そんな他愛のない話をしていると、ふいに先輩が私を見て言った。


「ねえ。君、ドッペルゲンガーって知ってる?」

「…………」


 デジャヴ、三。


「それ、何か重要なことなんですか? 昨日も言ってましたよね」

「――え? そうだっけ?」


 そう言って先輩は首をひねった。とぼけているのか、それとも本気か。本気だとしたら、物忘れが激しすぎて心配になる。

 しかし。


(ドッペルゲンガー、か)


 自分とそっくりな姿をしたもの。分身だとか、生き霊だとか、見たら死ぬとか、そんな通り一遍の噂なら知っている。

 なぜそんなにこだわるのだろう。もう一度聞こうとして顔を上げたときには、先輩はスマホを持って空港の方へ行ってしまっていた。


 電波状態のいい場所を探しに行ったのだろうか。今、会話の途中ではなかったか。

 先輩の謎な言動に呆れた私は、視線を空に戻して刻一刻と移り変わる雲の観察を続けた。


 けれど、雲の様相がすっかり変わってしまった頃になっても、彼はなかなか帰ってこない。


 やがて、飛行機がもう一機、姿を見せた。今度は徐々に近づいてくる。昨日と同じ最終便かもしれない。

 さすがにこれを見逃したらかわいそうだろう。立ち上がってみると体調は良くなっていたので、探しに行くことにした。


 みはらしのいい公園だ。すぐに見つかるかと思いきや、どこにも姿は見当たらなかった。木陰に戻ると、彼が置いていったはずの本までもが無くなっている。


「? 先輩……?」


 すれ違った? それで、声もかけずに先に帰った?

 あまりにも不可解で、しばらく立ち尽くしてしまう。


 飛行機のつくる影が地面に落ちた。

 もう一度だけ、名を呼んだ。

 呼びかける声に応える人はなく、ただエンジンの立てる轟音だけが響く。



 見上げた空には、飛行機に蹴散らされたのか、問答雲は見えなかった。


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