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第3話

 自然が多いといえば聞こえはいいが、はっきり言ってここは田舎だ。唯一自慢できるものがあるとすれば、新しくできた空港くらいか。


 途方もなく広い敷地には、展望広場というこれもただ広いだけの公園が設置されていて、何もない故に飛行機を眺めるには絶好の場所だ。残念ながら飛行機にこれっぽっちも興味のない私にとっては、格好の予備グラウンドというべき場所でもある。


「うーん。今日も、いい天気……!」


 大きく空を仰いで両手を伸ばす。

 強い風でちぎり飛ばされたかのような小さな雲や、細くかすれたような雲がのっぺりとした青い空に浮かんでいる。入道雲は見当たらないから、今日は一日晴れだろう。


 夏休み初日。

 午前中で部活を終えた私は、比較的気温の下がる夕方まで待ち、自主練習をしようと公園に来ていた。


 猛暑による弊害へいがいは部活にまで及んでいる。大会を目前に控えた今でさえ、屋外での運動は昼前に切り上げなければならない。練習量に満足できない場合は、自分でどうにか補うしかない。


 太陽が傾きかけたこの時間になっても、熱と湿気をはらんだ空気は重くてうっとうしい。準備運動を終えると、吹き出した汗もろくに拭わず、丘の脇に引かれた縦のラインを軽く走った。


 密度の高い空気が一瞬だけ肌にまとわりつき、ほのかな熱を残して後ろへ流れていく。

 刹那せつなに生じる幻のような涼しさ。

 走っているとき特有の、風を切る感覚。

 それに夢中になっていると、いつの間にかトップスピードに乗っていた。つまさきが地面に触れる時間はほんのわずかで、そのまま浮いて飛んでいってしまいそうな錯覚に陥る。


 もし本当に空を飛べたら、走るよりも、もっと自由を感じられるだろうか。


「――ああ、空、飛んでみたいなあ」


 走った勢いを殺しがてら、芝生に転がりこんで仰向けになる。

 高く広がる青空に向かって手を伸ばし、独り言つ。誰もいないこの空間を独り占めしている開放感で、知らず知らずのうちに大きくなっていた独り言。


 だから、返事が返ってきてぎょっとした。


「――いいね。それ」


(ひえっ!?)


 びくりとして、体を起こした。笑みを含んだよく通る声に顔を向けると、小高くなった芝生の辺りに男子生徒が佇んでいた。


 緑とグレーを基調とした制服に、きらりと光る胸元の校章バッジ。うちの高校の生徒に間違いない。

 片手で本を開き、こちらへ向けた顔はかなりの美形で――、自分から話しかけてきたくせに、なぜか驚いた表情をしていた。


(え? 本? こんな炎天下で? っていうか、ついさっきまで誰もいなかったのに……?)


 気になったが、問題はそこではない。


「あ、あの、えーと、今のは――」


 独り言を聞かれてしまった気恥ずかしさをごまかすため、私は慌てて取り繕おうとした。

 すると、彼は、


「なんで、こんなところにいるんだ? それに、その格好……!」


 遮るようにそう言って、ずかずかとこちらへ近づいてきた。


 まさか、知り合いか。

 内心冷や汗をかきながら、相手の顔をさりげなく観察する。


 すらりとした長身のイケメン。休み時間にはクラスメイトとバスケでもしていそうな外見だが、うちのクラスの男子達より佇まいに余裕がある。もしかしたら上級生かもしれない。

 ……うん。やっぱり知らない人だ。


「えーと、別に、公園の使用許可はいらなかったと思いますけど……」


 質問の意図がわからなかったので、あたりさわりのない返答をしてみる。すると、彼は目頭を押さえて目をつむった。


「もしかして、幻かな?」

「……は?」


 幻って、私のことか。

 ぽかんとしている私を尻目に、彼はスマホを操作し始めた。そのまま、正面にいる私の存在は無視される。


(えーと……、どうしよう?)


 会話はいつの間にか終わっていたのだろうか。それとも全部、独り言だったのだろうか。

 所在なげに突っ立っていた私は、もうしばらく待ち続け、そして結論を下した。


(この人、顔はいいけれど、ちょっと変な人だ。放っといて、練習に戻ろう、うん)


 スマホに夢中になっている彼を刺激しないよう後ずさりして、乗ってきた自転車の元に戻った。

 ジャージを脱いで短パンになり、練習内容を頭の中で軽くさらう。今日は、二百メートルと四百メートルのタイムを計るつもりだ。


 とはいっても、スマホのアプリを使って距離を計測し、タイマーを持ったまま走って自分で押すという、正確さは期待できないやり方だ。練習なのだし、そもそも一人しかいないし、厳密なタイム測定は諦めている。


 芝生で覆われた楕円形の小さな丘を、むき出しの土がぐるりと囲んでいる。私が練習に使っているのはちょうどトラックのようになっているそこの部分だ。小石を使ってスタートラインを引いていると、すでに存在を忘れていた男子が、慌てたように駆け寄ってきた。


「ちょ、ちょっと……、まさか、今から走る気?」


 そのぶしつけな言いようにむっとする。


「なんですか。走っちゃ悪い理由でもあるんですか?」


 つい口調がとげとげしくなった。

 私が気を悪くしたのを悟ったのか、彼は「ごめんごめん」と言って笑った。


「そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、暑いから心配で。こんな時に走って大丈夫なのかなって思ってさ。君、えーと……」


 彼の視線がユニフォームの上をさりげなく移動する。


「君の名前、聞いていい?」


 なぜ、名前を。

 うさんくさげな私の顔を見て、彼が吹き出した。


「あ、警戒してる? 別にとって喰いやしないって。第一、同じ学校だろ?」

「……でも、私、あなたのこと知りませんし」


 たとえ同じ学校だとしても、知らない人を警戒するのは当然だろう。すると、彼は驚いたように目を見張った。


「あれ。俺のこと、知らないんだ?」


 どういう意味か知らないが、もしそれが「こんなイケメンの俺を」という意味ならば、今すぐその認識を正してやりたい。少なくとも、私の方に面識は一切無い。


「そっか。それは悪かったね。警戒するのも当然か。俺は相原あいはら向貴こうきって言うんだ。三年で、理系クラスの二組」


 やっぱり三年生だったようだ。名前も初めて聞くし、初対面が確定する。

 それはいいのだが、これだと流れ的に私も名乗らなければいけないのだろう。しぶしぶと口を開く。


「……ささいせつか。二年です」

「……え?」

笹井ささい雪花せつかです! 笹の、井戸の、雪の花!」

「――……」


 彼は一瞬だけ眉根を寄せて、口の中で何かつぶやいた。


「やっぱり、本物か……」

「え?」

「いや、何でもないよ。えーと……。君さ、ドッペルゲンガーって知ってる?」

「――はあ?」


 今度は何の話だろう。いい加減、うさんくささマックスである。私がドン引きしたのがわかったのか、相原先輩は慌てた。


「ああ、知らないならいいんだ。それより、その格好、陸上部みたいだね」

「……そうですけど」

「大丈夫なの?」

「何が」

「走って」

「……っ」


 イライラの頂点に達した私は、彼のことは無視することにした。たとえ先輩だろうと、これ以上付き合っていられない。

 そう思って返事もせずに作業に戻った。小石を捨ててストップウォッチを確認する。そこに、画面を覆うようににゅっと腕が伸びてきたので仰天した。


「え、ちょ……、何ですか!?」

「タイム計るんでしょ? 俺がやってあげる」

「けっ……、結構ですけど!?」


 断ったのに、やんわりと手をほどかれたと思ったら、ストップウォッチは彼の手に渡っていた。


 なんだこれ。魔法か?

 取り返したかったが、そのためには彼に触らなければならないし、何かと面倒くさそうだった。彼が何をしたいのかわからないのは不気味だが、正直、時間が惜しい。


 気を取り直して位置に着き、クラウチングスタートの姿勢を取った。深呼吸をしてゴールを見据える。



 ――周囲の音が消える。



 自分の体に意識をめぐらし、呼吸を整えて……、スタートを切った。

 先ほどとは違い、体の動きやペース配分に注意して加速していく。


 すると、隣に違和感を覚えた。視線だけわずかに横へやり、ぎょっとする。

なぜか、スタート地点に置いてきたはずの先輩が、隣でストップウォッチを見つめている。


 ――走って私についてきている!


「……ちょっと! なんで走ってるんですか!?」


 ゴールまでなんとか走りきり、到着するや否や大声で抗議した。遅れて足を止めた先輩が、きょとんとして手の中の物をかかげる。


「え? だって、ゴールの場所教えてもらってないだろ。聞こうとしたら走り出しちゃうし、そしたら一緒に走るしかないでしょ」

「なんで私より速いんですか!?」

「え? そうだった? それより、今のタイム見る?」


 にこにこして画面を見せてきたが、私はそれを一瞥いちべつするにとどめ、すぐに先輩の顔をにらみつけた。


「むかつきます! もう一回勝負して下さい!」

「別にいいけど……、え、勝負?」


 私の着ているのは陸上競技用のユニフォーム。対して、先輩は決して動きやすいとは言えない制服に革靴、そして手にはストップウォッチ。しかも、私の後から走り出して、ほぼ同時にゴールした。


 どういうことなの。



 その後、私は何度も勝負を挑み、何度となく負けたのだった。


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