世話になった李翁たちに別れを告げ、楽毅たちは新たな旅立ちの時を迎えた。
邯鄲の城壁を抜けるとすぐに、新緑に彩られた並木道が延々と続く。
初夏の風はほんのりと若葉の香りを帯び、道行く人々の鼻をくすぐる。
「邯鄲での日々はあっという間でしたが、素敵な出会いがありました」
城門の方を一度振り返り、楽毅は感慨深げに言った。
「そうですね。まさか、我々の元に王族の者が訪れるとは思いませんでしたが」
苦笑交じりに楽乗が同意する。
「それで姉上。魏へ行くのはよいのですが、何か伝はあるのですか?」
「そうですねぇ。残念ながら御先祖様の国というだけで親族も知り合いもおりませんので、すぐに仕官というワケにはいかないでしょう」
まあ、気長にいきましょう、と楽間の問いに笑みで答える。
その時、突然翠が楽毅の前に回りこんで勢いよく膝をつくと、
「申し訳ございません、楽毅姉さん!」
いつになく大きな声で言って深々と叩頭する。
思いも寄らぬ行動に、楽毅たちは面食らってしまう。
「以前、私は楽毅姉さんに【墨家】に属していた自身の過去について告白しました。ですが、楽毅姉さんはそんな私を妹として、本当の家族のように温かく受け入れてくださいました。」
ですが、と一拍間を置いてから頭を上げ、
「私にはもう一つ、まだ楽毅姉さんに隠していた事実がございます」
いつになく真剣な眼差しで、翠は告げた。
「隠していた事実?」
「はい。以前邯鄲で楽毅姉さんたちとお会いした時、私は従者としてアナタにお供しました。まだ【墨家】としての密命を帯びていた時期でしたから、私は進んでそうするつもりでした。しかし、本当は──」
ここでひとつ息を入れて、
「楊様からも、アナタの動向を監視し逐一報告するよう言いつけられていたのです」
翠は意を決して伝えた。
「楊どのが……わたしを監視?」
驚くというより困惑といった面持ちで、楽毅は首を傾げる。
なぜ、武器商人である楊星軍から監視されなければならないのだろうか。
やはり無謀でしかない投資を不安に思っていたのか、とも考えたがすぐに否定した。さほど金銭に執着している風にも見えなかったし、そもそも不安に思っていたら最初から投資などしないはずだ。
だとすると、考えられる理由は──
──わたしがアレクサンドロスの血族であるのを知った上で、紅い宝珠の行方を探ろうとしていた?
もはや、そうとしか考えられない。
つまり、それは──
──楊どのは【墨家】と繋がりがある?
楽毅の頭の中に、あまり考えたくない可能性が浮上する。
「楊様はたしかに掴みどころが無く、細かい素性まで私は知りませんが、少なくとも【墨家】では無いと思います」
その可能性を打ち消すように、翠は言った。
「今まで欺き続けた私のことは信じてもらえなくて良い。でも、楊様のことは信じてあげてください! あの方は楽毅姉さんの敵じゃない。楽毅姉さんを本気で護るために私を遣わし、心配しているから私に動向を報告させた。そう、思います。そう、思いたいです……」
眦に涙を溜めながら、翠はまるで懇願するように言った。
楽毅たちは戸惑い、言葉に窮する。特に楽間は衝撃を受けたようで、明らかに顔を曇らせていた。
無言のまましばらく考えこんでいた楽毅だったが、ふぅ、と一息ついてから、
「どんな思惑があるにせよ、楊どのはこれまでわたしたちに多大な援助をしてくださいました。彼に対しては言葉に出来ないほどの感謝の気持ちしかありません。ですから、わたしは彼が何者なのか追及するようなことは致しません」
そう告げる。
そして楽毅は膝をつき、彼女と視線を合わせ、
「アナタだってそう。アナタはこれまでずっとわたしたちのを支えてくれて、援けてくれた。たとえその裏にどんな事情があったとしても、それは揺るぎない事実です。アナタがいなかったら、今のわたしは無かった。それは、楽乗さんや楽間にとってもそう。アナタは今のわたしを──今のわたしたちを構成するひとり。無くてはならない大切なひとりなんですよ」
滔々とした口調で語る。
「楊様を……私を……信じてくれるのですね?」
楽毅はコクリとうなずき、スッと翠の肩に手を伸ばし、
「本当は、楊どのの元へ帰りたいのでしょう?」
彼女の心を慮った。
翠は充血した目をギョッと剥いた。
楽乗と楽間も、その言葉に動揺を隠せなかった。
「何で……楽毅姉さんは何でそこまでわかるのですか……?」
「前にアナタが言いましたよね? 『この人は私と同じなんだ』、と。『どこにも行けない──どこへ行けばわからないのにただ漠然と広い世界に憧れる雛鳥なんだ』、と。だからわかるんです。アナタもわたしと同じ、自分自身を知りたいのだと」
「……本当に、楽毅姉さんには敵わないなぁ」
翠はそう言って苦笑した。
「私が過去の記憶を喪失し、両親すらも思い出せないことは以前お伝えした通りです。記憶なんて無くてもいい。これから先のことだけを考えて生きていけばいい。何度も何度もそう自分に言い聞かせてきました。ですが──」
翠はそっと目を伏せ、
「これまで家族というものに触れ、家族として扱っていただける喜びを感じる度に、私の本当の両親や 喪失った記憶がどうしても頭を擡げるのです。本当の私は誰? 本当の私はどんなコなの? そう考える度に、私は不完全なんだ、って思い知らされるんです。記憶を埋めない限り──本当の自分を知らない限り私は前には進めないんです。だから、私は楊商会に戻りたい。いろいろな所を廻っていろいろな話を聞けば、もしかしたら私を知っている人に出会えるかもしれないから……」
思いの全てを吐露する。
それでもここに居てほしい──
これまで家族同然に過ごしてきた三人はそう思った。しかし、自分自身を知りたいと心から願う少女を、これ以上引き留めることは出来ないと悟った。
「アナタがそこまで思っているのでしたら、わたしはそれを応援します」
三人を代表するように、楽毅は言った。
「許してくれるのですか? 自分から居させてほしいと頼んでおきながら、今度は戻りたいなんて言うこんなワガママな私を」
楽毅はコクリとうなずき、
「記憶が戻って本当のご家族に会うことが叶ったとしても。それでも、わたしたちはアナタの帰りを待っていますから」
そのまま彼女を抱き締め、母の如く慈愛に満ちた言葉をかけた。
「こんな私を……また迎え入れてくださるのですか?」
「アナタがそれを望むのなら」
翠の言葉に、楽毅は笑顔で答えた。
翠が顔を見上げると、楽乗と楽間も笑みを浮かべてコクりとうなずいた。
「ありがとうございます。私が離れるのは、すべての蟠りを脱ぎ捨て、みなさんと本当の家族になるためです。だから……為すべきことを終えたなら、必ず帰ってきます!」
翠はそう言って破顔し、まるで幼子のように声を上げて泣いた。
楽毅も──
楽乗も──
楽間も──
声の限り泣いた。
こうして翠は楽毅たちの元を離れ、【魏】とは真逆の【斉】への路を行く。
三人となった楽毅たち一行は、止め処無く溢れ来る哀しみをこらえながら、【魏】の国都・大梁へと続く寂寥の広野を歩んで行った。
──ねえ、齋和。わたし、少しは変われたのかな?
楽毅は碧き双眸を天に向けて問うた。
青い、ただひたすら塗りたくったような青い色彩は昨日と同じ。
否、違う。
まったく同じ天など、無い。
刻はいつも廻り、廻るもの。
人はいつか巡り、巡るもの。
奇しき縁の糸は、常盤に歴史を紡ぐものなのだから──