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第16話 アナタの帰りを待っていますから

 世話になった李翁りおうたちに別れを告げ、楽毅がくきたちは新たな旅立ちの時を迎えた。


 邯鄲かんたんの城壁を抜けるとすぐに、新緑に彩られた並木道が延々と続く。

 初夏の風はほんのりと若葉の香りを帯び、道行く人々の鼻をくすぐる。


邯鄲かんたんでの日々はあっという間でしたが、素敵な出会いがありました」


 城門の方を一度振り返り、楽毅がくきは感慨深げに言った。


「そうですね。まさか、我々の元に王族の者が訪れるとは思いませんでしたが」


 苦笑交じりに楽乗がくじょうが同意する。


「それで姉上。へ行くのはよいのですが、何かつてはあるのですか?」

「そうですねぇ。残念ながら御先祖様の国というだけで親族も知り合いもおりませんので、すぐに仕官というワケにはいかないでしょう」


 まあ、気長にいきましょう、と楽間がくかんの問いに笑みで答える。

 その時、突然ツェイ楽毅がくきの前に回りこんで勢いよく膝をつくと、


「申し訳ございません、楽毅がくき姉さん!」


 いつになく大きな声で言って深々と叩頭こうとうする。

 思いも寄らぬ行動に、楽毅がくきたちは面食らってしまう。


「以前、私は楽毅がくき姉さんに【墨家ぼっか】に属していた自身の過去について告白しました。ですが、楽毅がくき姉さんはそんな私を妹として、本当の家族のように温かく受け入れてくださいました。」


 ですが、と一拍間を置いてから頭を上げ、


「私にはもう一つ、まだ楽毅がくき姉さんに隠していた事実がございます」


 いつになく真剣な眼差しで、ツェイは告げた。


「隠していた事実?」

「はい。以前邯鄲かんたん楽毅がくき姉さんたちとお会いした時、私は従者としてアナタにお供しました。まだ【墨家ぼっか】としての密命を帯びていた時期でしたから、私は進んでそうするつもりでした。しかし、本当は──」


 ここでひとつ息を入れて、


ヤン様からも、アナタの動向を監視し逐一報告するよう言いつけられていたのです」


 ツェイは意を決して伝えた。


ヤンどのが……わたしを監視?」


 驚くというより困惑といった面持ちで、楽毅がくきは首を傾げる。


 なぜ、武器商人である楊星軍ヤン・シンジュンから監視されなければならないのだろうか。

 やはり無謀でしかない投資を不安に思っていたのか、とも考えたがすぐに否定した。さほど金銭に執着している風にも見えなかったし、そもそも不安に思っていたら最初から投資などしないはずだ。


 だとすると、考えられる理由は──


 ──わたしがアレクサンドロスの血族であるのを知った上で、紅い宝珠の行方を探ろうとしていた?


 もはや、そうとしか考えられない。

 つまり、それは──


 ──ヤンどのは【墨家ぼっか】と繋がりがある?


 楽毅がくきの頭の中に、あまり考えたくない可能性が浮上する。


ヤン様はたしかに掴みどころが無く、細かい素性まで私は知りませんが、少なくとも【墨家ぼっか】では無いと思います」


 その可能性を打ち消すように、ツェイは言った。


「今まであざむき続けた私のことは信じてもらえなくて良い。でも、ヤン様のことは信じてあげてください! あの方は楽毅がくき姉さんの敵じゃない。楽毅がくき姉さんを本気で護るために私を遣わし、心配しているから私に動向を報告させた。そう、思います。そう、思いたいです……」


 まなじりに涙を溜めながら、ツェイはまるで懇願するように言った。

 楽毅がくきたちは戸惑い、言葉にきゅうする。特に楽間がくかんは衝撃を受けたようで、明らかに顔を曇らせていた。


 無言のまましばらく考えこんでいた楽毅がくきだったが、ふぅ、と一息ついてから、


「どんな思惑があるにせよ、ヤンどのはこれまでわたしたちに多大な援助をしてくださいました。彼に対しては言葉に出来ないほどの感謝の気持ちしかありません。ですから、わたしは彼が何者なのか追及するようなことは致しません」


 そう告げる。

 そして楽毅がくきは膝をつき、彼女と視線を合わせ、


「アナタだってそう。アナタはこれまでずっとわたしたちのを支えてくれて、たすけてくれた。たとえその裏にどんな事情があったとしても、それは揺るぎない事実です。アナタがいなかったら、今のわたしは無かった。それは、楽乗がくじょうさんや楽間がくかんにとってもそう。アナタは今のわたしを──今のわたしたちを構成するひとり。無くてはならない大切なひとりなんですよ」


 滔々とうとうとした口調で語る。


ヤン様を……私を……信じてくれるのですね?」


 楽毅がくきはコクリとうなずき、スッとツェイの肩に手を伸ばし、


「本当は、ヤンどのの元へ帰りたいのでしょう?」


 彼女の心をおもんぱかった。


 ツェイは充血した目をギョッと剥いた。

 楽乗がくじょう楽間がくかんも、その言葉に動揺を隠せなかった。


「何で……楽毅がくき姉さんは何でそこまでわかるのですか……?」

「前にアナタが言いましたよね? 『この人は私と同じなんだ』、と。『どこにも行けない──どこへ行けばわからないのにただ漠然と広い世界に憧れる雛鳥なんだ』、と。だからわかるんです。アナタもわたしと同じ、自分自身を知りたい・・・・・・・・・のだと」

「……本当に、楽毅がくき姉さんにはかなわないなぁ」


 ツェイはそう言って苦笑した。


「私が過去の記憶を喪失なくし、両親すらも思い出せないことは以前お伝えした通りです。記憶なんて無くてもいい。これから先のことだけを考えて生きていけばいい。何度も何度もそう自分に言い聞かせてきました。ですが──」


 ツェイはそっと目を伏せ、


「これまで家族というものに触れ、家族として扱っていただける喜びを感じる度に、私の本当の両親や 喪失うしなった記憶がどうしても頭をもたげるのです。本当の私は誰? 本当の私はどんなコなの? そう考える度に、私は不完全なんだ、って思い知らされるんです。記憶を埋めない限り──本当の自分を知らない限り私は前には進めないんです。だから、私はヤン商会に戻りたい。いろいろな所を廻っていろいろな話を聞けば、もしかしたら私を知っている人に出会えるかもしれないから……」


 思いの全てを吐露する。


 それでもここに居てほしい──

 これまで家族同然に過ごしてきた三人はそう思った。しかし、自分自身を知りたいと心から願う少女を、これ以上引き留めることは出来ないと悟った。


「アナタがそこまで思っているのでしたら、わたしはそれを応援します」


 三人を代表するように、楽毅がくきは言った。


「許してくれるのですか? 自分から居させてほしいと頼んでおきながら、今度は戻りたいなんて言うこんなワガママな私を」


 楽毅がくきはコクリとうなずき、


「記憶が戻って本当のご家族に会うことが叶ったとしても。それでも、わたしたちはアナタの帰りを待っていますから」


 そのまま彼女を抱き締め、母の如く慈愛に満ちた言葉をかけた。


「こんな私を……また迎え入れてくださるのですか?」

「アナタがそれを望むのなら」


 ツェイの言葉に、楽毅がくきは笑顔で答えた。

 ツェイが顔を見上げると、楽乗と楽間も笑みを浮かべてコクりとうなずいた。


「ありがとうございます。私が離れるのは、すべてのわだかまりを脱ぎ捨て、みなさんと本当の家族になるためです。だから……為すべきことを終えたなら、必ず帰ってきます!」


 ツェイはそう言って破顔し、まるで幼子のように声を上げて泣いた。


 楽毅がくきも──

 楽乗がくじょうも──

 楽間がくかんも──

 声の限り泣いた。




 こうしてツェイ楽毅がくきたちの元を離れ、【】とは真逆の【せい】へのみちを行く。


 三人となった楽毅がくきたち一行は、止め処無く溢れ来る哀しみをこらえながら、【】の国都・大梁たいりょうへと続く寂寥せきりょうの広野を歩んで行った。


 ──ねえ、齋和さいか。わたし、少しは変われたのかな?


 楽毅がくきあお双眸そうぼうそらに向けて問うた。


 青い、ただひたすら塗りたくったような青い色彩は昨日と同じ。

 いや、違う。

 まったく同じそらなど、無い。

 ときはいつも廻り、廻るもの。

 人はいつか巡り、巡るもの。

 奇しきえにしの糸は、常盤ときわに歴史を紡ぐものなのだから──

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