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第15話 誰に似おったのか

 寒々とした空気が周辺あたりを支配している。

 季節はまだ初夏だというのに、そのような事など御構い無しに、弓のつるのようにピンと張りつめたそんな危うい空気だ。


 そもそも、この室内自体が異様なまでに無機質であった。

 だだっ広い、とにかく広い空間の中にあるものは数器の宮灯ランタンと玉座のみだ。

 今、この異様とも言える空間にいるのは、虎皮を背にかけた玉座に座した男と、その男の面前で腰をほぼ直角に曲げた状態で拝礼する色白の男。


「……失敗しくじったのか?」


 最初に沈黙を破ったのは、気だるい面持ちで玉座に座す男──武霊王ぶれいおうだった。


「は。何の申し開きもございません」


 感情の無い冷徹なその言葉に、色白の男──李兌りたいはまるで柳のようにたおやかな体躯からだを更にしならせ、謝意を表す。


「やはり刺客風情ではあの宝珠の力を打ち破ることは出来ぬか」

「いいえ、それが……」


 武霊王ぶれいおうの言葉を制する李兌りたい。しかし、何か言いづらそうにすぐに口をつぐんでしまう。


「いいから続けろ」

「はっ」


 まるで岩の如く器物で殴りつけられたかのような重圧プレッシャーに、李兌りたいの額から一滴の汗が床へとしたたる。


「刺客の話では楽毅がくきは宝珠の力を使うことは無く、任務を遂行出来なかったのは趙勝姫ちょうしょうき公女こうじょ殿下が楽毅がくきと共におり、これを阻害したから、と申しておりました」

勝姫しょうきが?」


 その言葉に、武霊王ぶれいおうの太い眉毛が不快を示すように吊り上がる。


「間違いないのか?」

「は。天女の如く美しき容貌かおだち。凛とした佇まいに毅然とした態度。間違いなく趙勝姫ちょうしょうき公女こうじょ殿下だったと申しております」


 報告を聞くや否や、武霊王ぶれいおうは大きなため息をひとつ吐き出し、


「あのじゃじゃ馬め、また女官の目を盗んで市井しせいに紛れこみおったのか」


 頭を押さえながら苛立たし気につぶやいた。


 ──どうせまた趙何ちょうかを巻きこんだのだろう。本当に困った者たちだ。


 武霊王ぶれいおうは天井を仰いで目を閉じた。


 粗野粗暴で民草にしょっちゅう乱暴を働いていた義兄あに趙章ちょうしょうと違い、下の二人は普段はおとなしく、とても聞き分けの良い子だ。しかし、人の上に立つ者がこう頻繁に民の前に現れると、段々とその高貴な存在が軽んじられてゆく。武霊王ぶれいおうはそれを危惧していた。

 更に趙勝姫ちょうしょうきに至っては孟嘗君もうしょうくんに並々ならぬ憧憬を抱いており、自らも偶像アイドルになるなどと豪語しており、彼にとっては大きな悩みのタネであった。


「まったく、誰に似おったのか……」

「は?」

「何でも無い。忘れろ」


 思わず吐露してしまった言葉を即座に取り消す。

 李兌りたいもすぐに空気を読んで、じゃじゃ馬公女こうじょの話題にこれ以上触れることはせず、


「それで楽毅がくきの件なのですが」


 と話を本題に戻した。


「兵士の話によればどうやらすぐに邯鄲かんたんを発つようで、今はそのための準備をしているとの情報です」


 いかがでしょう、と言って李兌りたいはようやく顔を上げ、


「彼女らが邯鄲かんたんを出た時、再び刺客を放ってみては? 今度は私自らがおもむき、必ずや主上の禍根かこんを絶ってご覧に入れましょう」


 優男やさおとこの外見と乖離かいりした怪しい笑みを浮かべて言った。


「……もう良い」

「は?」

「もう良い、と言ったのだ。あんな小娘のことなどもう捨て置け」


 てっきり地獄の底まで追いつめるくらい楽毅がくきを嫌い抜いていると思いこんでいた李兌りたいは、思わず拍子抜けしてしまう。


「それよりも李兌りたい例の件・・・はどうなっておる?」


 視線を落とし、武霊王ぶれいおうたずねる。


「は、その事・・・でしたら重臣の方々から多くのご賛同を得られております。後は、主上のご裁断のみでございます」


 その言葉に武霊王ぶれいおうは満足そうな、それでいてどこかうれいを帯びた瞳で笑った。


「申し上げます」


 その時、ひとりの兵士が駆け足でやって来ると、


「大尉の趙与ちょうよ様が主上へのお目通りを求めております」


 膝をついて拝礼し、うやうやしく告げた。


「あやつめ、楽毅がくきのことを耳ざとく嗅ぎつけてさっそく小言を言いにやって来おったか」


 苦笑する武霊王ぶれいおう


「いいだろう、通せ。李兌りたい、お前はもう下がってよい」


 拝礼を残し、二人はその場を後にした。


「さて、退屈しのぎに五月蠅うるさいヤツの相手でもしてやるか」


 誰もいなくなった室内で武霊王ぶれいおうわずらわしそうに、それでいてどこかたのしそうにひとりごちるのだった。

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