「ですが楽毅姉さん。【趙】も【楚】もダメとなると、他に有力な国はありません」
相変わらず冷静な口調の翠。
「ええ、そうなんです。そうなってしまいますね」
楽毅は力なくつぶやいた。
「【韓】は強国に内包されるような構図にあり、強国間の争いに否応無しに巻き込まれているのが現状です。うまく立ち回れたとしても、天下に覇を唱えることはまず無いでしょう」
この言葉どおり、【韓】は全方位を強国に囲まれているという、立地的に大きな不利を抱えていた。かつて申不害という賢人宰相がいたが、それ以降はこれといった人材も出ていない。これでは仮に楽毅が【韓】王からの絶大なる信任を得たとしても、【秦】などの大国と対等に渡り合うのは至極困難であろう。
「となれば、あとは【魏】か【燕】しか残っておりませんね」
しばしの沈黙の後、楽間が絞り出すように呟く。
「【燕】……」
楽毅はその国名を聞き、押し黙るように口元にしなやかな指をあてがう。
「【燕】は郭彌という賢人の献策を用いて、廣く人材を求めております。楽毅姉さんであれば喜んで迎え入れられ、重用されるに違いありません。私個人としては、お姉さんには【燕】にゆくことをお勧めいたします」
真剣な眼差しを向け、翠が語る。口調も内容も柔らかいものであったが、裏腹にその瞳は是非にと言わんばかりの迫力が垣間見えた。
楽毅は考え込む。
【燕】王は謙虚にして家臣の意見をよく聞き、国や身分に囚われない人材登用を積極的に行っているという噂はすでに聞き及んでおり、彼女自身少なからず興味を抱いていた。しかし、【燕】に仕えるにはどうしてもためらいを禁じ得ない理由があった。
それは、今より十年以上も前のことである。
故国である【中山国】の兵は、かつて【斉】の軍勢と共に【燕】国を蹂躙した過去があり、【燕】人にとって楽毅たちのような【中山】人は【斉】人と同様に忌むべき存在なのだ。
その【中山国】は【趙】の武霊王によって滅亡したが、【燕】人の【中山】人に対する怨恨までもが伴って消失する訳では無いのだ。
「たしかに【燕】はとても魅力的な国だと思います。しかし、仮に【燕】で重用されたとしても、【斉】に対抗出来るほどの強国に育て上げる自信がわたしにはございません」
一息間を入れ、楽毅は全員を見回しながら告げた。
「ですので、わたしは……【魏】へ参ろうと思います」
消去法から導き出されたその答えに、楽乗たちからは歓迎とも失望とも取れぬ微妙な吐息が漏れ出した。
【魏】は中原に位置し、かつては中華大陸一の軍事力を誇っていた。しかし、【斉】との戦いに敗れてからはかつての栄光はもはや見る影もなく、今では宰相の公孫衍が孤軍奮闘しているが、【斉】や【秦】といった大国の狭間でじっと息を潜めている、という現状であった。
「たしかに【魏】の現状は【韓】や【燕】と同様に厳しく、【斉】や【秦】に対抗するのは困難に違いありません。しかし、【魏】には実績があります。かつて天下に一番近い国と称されただけの実績が。それに、【魏】はわたしたちの先祖である楽羊が仕えていた国です。これも何かの縁かもしれません」
自らに言い聞かせるように、楽毅は静かに語る。
しばらく沈黙していた楽乗たちであったが、やがて決心したように小さくうなずくと、楽乗がおもむろに口を開いた。
「【魏】へは以前に外交交渉に赴き、要人と面会したことがあります。楽毅お姉様を粗雑には扱わないでしょうし、他の小国で埋もれてしまうよりは希望が持てるかもしれません。私はお姉様に従います」
この楽乗の言葉に、楽間もうなずき賛成の意を示した。
「ありがとうございます。それでは明日、さっそく準備に取りかかりましょう」
方針が一応まとまり、みんなの顔に安堵が広がる。
ただひとり、【燕】行きを勧めた翠を除いては。