家に戻ると楽毅はすぐに、【趙】を離れる意志をみんなに伝えた。
元々【趙】での仕官に乗り気では無かった楽乗たちは、喜んで賛同した。
「しかし姉上。今度はどちらへ向かうおつもりですか?」
「問題はそこなのよねェ」
楽間の問いに、楽毅は虚空を見上げながら気だるい声を上げる。
「【斉】はいかがでしょう? 楽毅お姉様は孟嘗君の覚えもよいですし、きっと厚遇してくださるのでは?」
「たしかに孟嘗君にお仕え出来るのであれば、それはわたしにとってこの上ない幸福です。しかし、【斉】王とは完全に冷えきった関係にある現状を鑑みると、あまり得策では無いように思われます」
楽乗の問いに、楽毅は難しい顔で答える。
【斉】の湣王──
彼は己の欲望にままに兵を興し、他国を盛んに攻め立てている。さらには、己よりも人望が厚く鴻大な影響力を持つ孟嘗君を疎ましく思っている。狭量で愚昧な性質は、【中山国】を落日へと導いたかつての【中山】王・姫錯と同じだ。
「その孟嘗君のことなのですが」
そう言って翠が控えめに挙手し、話してよいかどうか目で伺う。楽毅がコクリとうなずくと、それを確認してから話を再開する。
「先ほど【斉】の商人から聞いた話なのですが、どうやら孟嘗君は【秦】から招聘されているようです」
「【秦】から⁉」
碧い宝珠の如く双眸が大きく瞠かれる。
「【秦】がいったい何のために孟嘗君を招こうとしているのですか?」
「はい。何でも【秦】の昭襄王は天下に名だたる偶像である孟嘗君をひと目見たいとかねてから切望していたらしいのです。そこで彼は【秦】で孟嘗君の演奏会を企画し、彼女を招いたようです」
「演奏会……ですか」
楽毅はまだ観賞したことは無かったが、中華大陸の頂点偶像である孟嘗君は、自国のみならず他国からの要望があればそこへ赴いて演奏会を行うこともあるのだ。しかし、それでも孟嘗君が【秦】で演奏会を行ったという話はこれまで聞いたことが無かった。
「はい。臨淄ではその噂で持ちきりで、孟嘗君を敬愛する多くの者たちがそれを止めさせるよう王宮前まで嘆願に押し寄せているとの事です」
「それで、孟嘗君はどうなさるおつもりなのでしょう?」
「はい。新しい【秦】王──昭襄王となった贏稷はそのための条件として自身の弟である涇陽君を人質として差し出すとのことなので、さすがの孟嘗君も無下には出来ずに悩んでおられるようです」
「公子を人質に出してまで招く……これは余程のことですね」
楽毅は思案してみた。
たしかに昭穣王こと贏稷は、自らを“芸術を愛でる紳士”と称したほどだ。孟嘗君に逢いたいという気持ちは本物なのだろう。
しかし、それでも楽毅はその裏に垣間見える策謀のような不審を感じずにはいられなかった。
「……ということは、【斉】王は渡りに船とばかりに喜んでいるのでしょうね?」
「正しく。厄介払いとばかりに孟嘗君を【秦】へ向かわせたがっているようです。そのままずっと【秦】にいてほしい、とさえ願っているでしょう」
ううん、と楽毅は唸った。
孟嘗君が湣王に愛想を尽かして【秦】にそのまま滞在するのであれば、自らもそれに追従すればよい。しかし、【秦】の昭襄王──贏稷と楽毅は以前にひと悶着あり、さらには贏稷が楽毅を血眼になって探しているという噂を最近耳にするようになっていた。何でも、自室に紅毛碧眼の娘の肖像画を掲げ、毎日それを見上げているとか。
恐らく贏稷は、楽毅に石をぶつけられた時のことをいまだ根に持っているのだろう。そうなれば、彼女の存在が孟嘗君の立場を危うくし、多大な迷惑をかけることになるだろう。
──やはり、どうあっても孟嘗君に仕えることはままならないのですね。
楽毅は嘆きのこもった深いため息を漏らした。
今現在、中華大陸では七雄と称される有力国を中心に興亡が繰り広げられているが、その中でも【斉】と【秦】は飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げている。
しかし、楽毅はそのどちらにも付くことが出来ないという不利を被っていた。
しばしの沈黙の後、楽乗がそっと口を開く。
「【斉】も【秦】も無理ならば、【楚】はいかがでしょうか? 国力という点だけを注視してみれば、【斉】や【秦】にも引けを取らない大国だと思いますが」
【楚】は長江流域を中心に肥沃な耕土を多く抱えており、彼女のいう通り国力のみに着眼すれば中華大陸随一の大国である。
しかし、楽毅はすかさずかぶりを振り、
「【楚】は呉起ほどの大才を自らの手で葬った時から、今でも変わらず愚昧なままです。人材を使えないクセに広大な領土に胡座を欠いてふんぞり返るだけの傲慢、欺瞞の王がいるだけです」
いつになく強い口調で言った。
それは、かつて【中山国】において愚昧な王と佞臣によって端に追いやられ、自らの力を存分に発揮出来無かった彼女の苦々しい経験が言わしめたものであった。
呉起はかつて【楚】に仕え、天才的な戦略眼のみならず革新的な法整備を用いて【楚】を強国へと押し上げた稀代の英傑であった。しかし、その方針は従来当たり前であった貴族階級の特権を廃するものであり、それを奪われた彼らは当然、呉起に対して並々ならぬ怨恨を抱いた。
結果、呉起は彼を重用していた王が崩御するや否や真っ先に貴族たちの襲撃を受け、亡き先王の遺体にすがり付いた状態のまま全身に矢を浴びるという壮絶な最期を遂げたのだった。
「自ら呉起を葬った結果はどうでしょう。彼の改革は頓挫となって【楚】は再び脆弱な国に戻り、逆に伝説の法家・商鞅を殺しながらも彼が目指した改革を推し進めて強国と化した【秦】に度々国土を削られる始末です。そのような愚蒙な国に仕えたくは無い、というのがわたしの正直な気持ちです」
楽毅は畳み掛けるように私見を述べた。
「大変愚かなことを申しました……」
楽乗は大きくうなだれ、まるでこの世の終わりを見たかのような陰気な声で言った。
「あ、いえ、お気になさらないでください。わたしの方こそ少し感情的になってしまい、申し訳ございませんでした」
楽毅は彼女の落ち込みぶりに困惑し、まるで赤子をなだめるように気を使う。
「楽毅お姉様が被った疼痛を思えば、仕える君主こそ最重要課題。それを失念しておりました」
尚も頭を下げる楽乗に、もう大丈夫ですから、と楽毅はその肩を優しく撫でるのだった。