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第12話 愚かなことを申しました

 家に戻ると楽毅がくきはすぐに、【ちょう】を離れる意志をみんなに伝えた。

 元々【ちょう】での仕官に乗り気では無かった楽乗がくじょうたちは、喜んで賛同した。


「しかし姉上。今度はどちらへ向かうおつもりですか?」

「問題はそこなのよねェ」


 楽間がくかんの問いに、楽毅がくきは虚空を見上げながら気だるい声を上げる。


「【せい】はいかがでしょう? 楽毅がくきお姉様は孟嘗君もうしょうくんの覚えもよいですし、きっと厚遇してくださるのでは?」

「たしかに孟嘗君もうしょうくんにお仕え出来るのであれば、それはわたしにとってこの上ない幸福です。しかし、【せい】王とは完全に冷えきった関係にある現状をかんがみると、あまり得策では無いように思われます」


 楽乗がくじょうの問いに、楽毅がくきは難しい顔で答える。


 【せい】の湣王びんおう──

 彼は己の欲望にままに兵を興し、他国を盛んに攻め立てている。さらには、己よりも人望が厚く鴻大こうだいな影響力を持つ孟嘗君もうしょうくんを疎ましく思っている。狭量きょうりょう愚昧ぐまいな性質は、【中山国ちゅうざんこく】を落日へと導いたかつての【中山ちゅうざん】王・姫錯きさくと同じだ。


「その孟嘗君もうしょうくんのことなのですが」


 そう言ってツェイが控えめに挙手し、話してよいかどうか目で伺う。楽毅がくきがコクリとうなずくと、それを確認してから話を再開する。


「先ほど【せい】の商人から聞いた話なのですが、どうやら孟嘗君もうしょうくんは【しん】から招聘しょうへいされているようです」

「【しん】から⁉」


 碧い宝珠の如く双眸そうぼうが大きくみひらかれる。


「【しん】がいったい何のために孟嘗君もうしょうくんを招こうとしているのですか?」

「はい。何でも【しん】の昭襄王しょうじょうおうは天下に名だたる偶像アイドルである孟嘗君もうしょうくんをひと目見たいとかねてから切望していたらしいのです。そこで彼は【しん】で孟嘗君もうしょうくん演奏会コンサートを企画し、彼女を招いたようです」

演奏会コンサート……ですか」


 楽毅がくきはまだ観賞したことは無かったが、中華大陸の頂点偶像トップアイドルである孟嘗君もうしょうくんは、自国のみならず他国からの要望があればそこへ赴いて演奏会コンサートを行うこともあるのだ。しかし、それでも孟嘗君もうしょうくんが【しん】で演奏会コンサートを行ったという話はこれまで聞いたことが無かった。


「はい。臨淄りんしではその噂で持ちきりで、孟嘗君もうしょうくんを敬愛する多くの者たちがそれを止めさせるよう王宮前まで嘆願に押し寄せているとの事です」

「それで、孟嘗君もうしょうくんはどうなさるおつもりなのでしょう?」

「はい。新しい【しん】王──昭襄王しょうじょうおうとなった贏稷えいしょくはそのための条件として自身の弟である涇陽君けいようくんを人質として差し出すとのことなので、さすがの孟嘗君もうしょうくんも無下には出来ずに悩んでおられるようです」

公子こうしを人質に出してまで招く……これは余程のことですね」


 楽毅がくきは思案してみた。


 たしかに昭穣王しょうじょうおうこと贏稷えいしょくは、自らを“芸術をでる紳士”と称したほどだ。孟嘗君もうしょうくんに逢いたいという気持ちは本物なのだろう。

 しかし、それでも楽毅がくきはその裏に垣間見える策謀のような不審を感じずにはいられなかった。


「……ということは、【せい】王は渡りに船とばかりに喜んでいるのでしょうね?」

「正しく。厄介払いとばかりに孟嘗君もうしょうくんを【しん】へ向かわせたがっているようです。そのままずっと【しん】にいてほしい、とさえ願っているでしょう」


 ううん、と楽毅がくきは唸った。


 孟嘗君もうしょうくん湣王びんおうに愛想を尽かして【しん】にそのまま滞在するのであれば、自らもそれに追従すればよい。しかし、【しん】の昭襄王しょうじょうおう──贏稷えいしょく楽毅がくきは以前にひと悶着あり、さらには贏稷えいしょく楽毅がくきを血眼になって探しているという噂を最近耳にするようになっていた。何でも、自室に紅毛碧眼こうもうへきがんの娘の肖像画を掲げ、毎日それを見上げているとか。


 恐らく贏稷えいしょくは、楽毅がくきに石をぶつけられた時のことをいまだ根に持っているのだろう。そうなれば、彼女の存在が孟嘗君もうしょうくんの立場を危うくし、多大な迷惑をかけることになるだろう。


 ──やはり、どうあっても孟嘗君もうしょうくんに仕えることはままならないのですね。


 楽毅がくきは嘆きのこもった深いため息を漏らした。


 今現在、中華大陸では七雄しちゆうと称される有力国を中心に興亡が繰り広げられているが、その中でも【せい】と【しん】は飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げている。

 しかし、楽毅がくきはそのどちらにも付くことが出来ないという不利を被っていた。

 しばしの沈黙の後、楽乗がくじょうがそっと口を開く。


「【せい】も【しん】も無理ならば、【】はいかがでしょうか? 国力という点だけを注視してみれば、【せい】や【しん】にも引けを取らない大国だと思いますが」


 【】は長江流域を中心に肥沃な耕土を多く抱えており、彼女のいう通り国力のみに着眼すれば中華大陸随一の大国である。

 しかし、楽毅がくきはすかさずかぶりを振り、


「【】は呉起ごきほどの大才を自らの手で葬った時から、今でも変わらず愚昧ぐまいなままです。人材を使えないクセに広大な領土に胡座あぐらを欠いてふんぞり返るだけの傲慢ごうまん欺瞞ぎまんの王がいるだけです」


 いつになく強い口調で言った。

 それは、かつて【中山国ちゅうざんこく】において愚昧ぐまいな王と佞臣ねいしんによって端に追いやられ、自らの力を存分に発揮出来無かった彼女の苦々しい経験が言わしめたものであった。




 呉起ごきはかつて【】に仕え、天才的な戦略眼のみならず革新的な法整備を用いて【】を強国へと押し上げた稀代の英傑であった。しかし、その方針は従来当たり前であった貴族階級の特権を廃するものであり、それを奪われた彼らは当然、呉起ごきに対して並々ならぬ怨恨を抱いた。

 結果、呉起ごきは彼を重用していた王が崩御するや否や真っ先に貴族たちの襲撃を受け、亡き先王の遺体にすがり付いた状態のまま全身に矢を浴びるという壮絶な最期を遂げたのだった。




「自ら呉起ごきを葬った結果はどうでしょう。彼の改革は頓挫とんざとなって【】は再び脆弱な国に戻り、逆に伝説の法家・商鞅しょうおうを殺しながらも彼が目指した改革を推し進めて強国と化した【しん】に度々国土を削られる始末です。そのような愚蒙な国に仕えたくは無い、というのがわたしの正直な気持ちです」


 楽毅がくきは畳み掛けるように私見を述べた。


「大変愚かなことを申しました……」


 楽乗がくじょうは大きくうなだれ、まるでこの世の終わりを見たかのような陰気な声で言った。


「あ、いえ、お気になさらないでください。わたしの方こそ少し感情的になってしまい、申し訳ございませんでした」


 楽毅がくきは彼女の落ち込みぶりに困惑し、まるで赤子をなだめるように気を使う。


楽毅がくきお姉様がこうむった疼痛とうつうを思えば、仕える君主こそ最重要課題。それを失念しておりました」


 尚も頭を下げる楽乗がくじょうに、もう大丈夫ですから、と楽毅がくきはその肩を優しく撫でるのだった。

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