二人きりになったのを確認してから、李勝は吐息と共に脱力する。
「……貴女はやはり、この国の公女・趙勝姫どのなのですね?」
楽毅の問いにしばらく黙していた李勝だったが、もうひと呼吸を置いてから振り返り、
「さすが楽毅様。いつから気づいてらしたのですか?」
控え目な苦笑と共に問う。
「初めてお会いした時から、その可能性を感じておりました。李翁が時々貴女と李何どのに敬語を用いておりましたので。それに、先ほど貴女は『父君』とおっしゃられました。高貴な方でなければ父親に君を用いることはありませんから」
「私たちが王族であると気づいていて、それでも楽毅様は他の者と変わらず対等に接してくださっていたのですね」
李勝は──趙勝姫は──襟を正してから、
「ご慧眼の通り私は武霊王の娘で趙勝姫。そして李何を名乗っていた兄は公子・趙何でございます。これまで欺き続けて申し訳ございませんでした」
無邪気な少女とは違った真剣な眼差しと冷静な口調でそう述べると、深々と頭を下げた。
「趙勝姫どの、どうか頭をお上げください。わたしも他の者たちも何も気にしてなどおりませんよ。公女であろうとなかろうと、貴女はひとりのかわいいお友達だとわたしは思っております」
少々驚いた表情を浮かべたものの、楽毅はすぐに趙勝姫の頭を優しく撫で、自らの気持ちを伝えた。
「本当ですか? 本当にこれまで通り私と友達でいてくださるのですか?」
「もちろんです」
楽毅は力強くうなずき、穏やかな笑みを向けた。その笑顔に安心した趙勝姫は、
「本当のことを申しますと、私は楽毅様を兄上の善き補佐役と見こんでその調査のために近づいたのです。もちろん私自身、楽毅様に大いに興味を抱いていたことも確かですが」
本心を吐露する。
しばらく重い沈黙が続いた後、それで、と楽毅がおもむろに口を開いた。
「実際に会ってみて、想像とは違いましたか?」
趙勝姫は、はい、と大きくうなずいてから、
「私の想像を遥かに超える器だと実感しました。父上が警戒するのも得心がいきます。楽毅様はもっと大きく羽ばたかれるお方。楽毅様にとっては【趙】でも狭すぎるのかもしれません」
晴れやかな表情でそう言った。
「わたしはただの敗北者です。そのような大それた人間ではございません。しかし、仰る通り今わたしが身を置くべきなのはこの国ではないように思います」
そう返す楽毅。それは、自らに下した新たな決意表明でもあった。
趙勝姫は小さくうなずき、
「また父君が刺客を差し向けるかもしれません。お早めに出立されたほうがよろしいでしょう」
そう告げた。
しかし、すぐに残念そうにため息をつくと、
「あ~あ、もっとたくさん楽毅様とお話がしたかったのになぁ。父君は本当に空気が読めないんだから」
武霊王に対して愚痴をもらすのだった。
「もうわたしが貴女に教えることは何もありません。趙勝姫どの。貴女は孟嘗君にはなれません。もちろん、わたしも同じです。彼女のように振る舞うことは出来ても、誰も彼女にはなれません。しかし、孟嘗君にすら持ち得ない素敵な魅力が貴女には備わっています。どうかそれを忘れないでください」
「魅力……私だけの?」
首をかしげて考えるが楽毅の言う自分の魅力がわからず、
「教えてください楽毅様。私の魅力とはいったい何なのでしょう?」
懇願するように問う。
「どうかそれはご自身で理解してください。他者から指摘されることで、逆にその魅力が陰ってしまう恐れがあります故」
かぶりを振って楽毅は答えた。
少し残念そうにうつむいた趙勝姫だったが、
「わかりました。そのお言葉を忘れずに精進いたします」
花が咲いたような満面の笑みで楽毅に礼を向けた。
──その素直でまっすぐな心と、人を魅了してやまない美しい笑顔。どうかそれを失わないでいてください。
眩いばかりの大輪の笑顔を見て、楽毅は心の中でそうつぶやいた。
その時、楽毅と李勝の名を呼ぶ声が細い路地の先から聞こえてくる。
「どうやら楽乗さんたちが迎えに来てくださったようですね」
「これでお別れですね。でも、いつかまたお会い出来ますよね?」
「ええ。いつか必ず」
二人は再会を誓い、固い握手を交わすのだった。