邯鄲に居を構えてからひと月が経ち、楽毅たちはその間実に穏やかな日々を過ごしていた。
特に、李同、李何、李勝の三人との交流は、血腥い戦場に長くいた彼女たちの心に新鮮な風をもたらすのだった。
「今日は絶好のお出かけ日和です。たまにはみなさんで街を散策しませんか?」
この日、そう持ちかけたのは李勝だった。
「たしかにここへ来てからずっと家にこもりっぱなしでしたし、邯鄲の街にも興味があります。わたしは是非ともご一緒したいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか?」
楽毅がそれに賛同し、みんなに問う。
「そうですね。私も久し振りに邯鄲の街を散策してみたいと思っておりましたので、賛成です」
楽乗がすぐ様同意すると、翠と楽間も追随する。
楽毅たちの新居がある路地を抜けて邯鄲の目抜き通りに出ると、そこは人の群れでごった返していた。
通り沿いには平時の数倍ほどの露店が軒を連ね、目一杯にめかしこんだ人々は陽気に笑い、飲み、食い、唄い、踊っている。
いつもとは異なる喧騒の光景に、楽毅は思わず目を丸くした。
「これはいったい何事でしょう?」
「祝祭です。先の戦いに勝利した祝いの──」
ここまで言って李勝はハッと口を噤んだ。
彼女の目の前にいるのはかつての敵であり、その敵を打ち倒して得た勝利であることを思い出し、己の不謹慎さを感じて後悔したのだ。
「すみません。お祭りならみなさんの心も晴れると思ってお誘いしたのですが、私が無神経でした」
李勝は恐縮し、深々と頭を下げた。
その場に、重い空気が流れる。
「いいえ、妹の不始末は兄である私の責任です」
庇うように李何が前に出て詫びを述べる。
「違います。祭りにみなさんをお誘いするよう進言したのは俺です。二人は何も悪くありません!」
すかさず李同が二人を制するように前に出て、剛直な声で訴える。
思わずあっけにとられる楽毅たち。
しかし、三人の実直さと思いやりをすぐさま感じ取った楽毅は、
「こうして祭りが行われるのは平和な証です。何も気に病むことはございません」
そう言って彼らに笑みを向けた。
「それに、わたしは祭りが好きです。お誘いいただき感謝しております」
楽毅の言葉に、楽乗たちも笑みを湛えてうなずいた。
「ホントですか?」
おどおどと視線を上げながら李勝が問う。
はい、と楽毅がうなずくと、李勝はパッと花が咲いたような満面の笑みで楽毅の腕に抱きついた。
「参りましょう、楽毅様」
まるで姉に甘えるように、李勝は楽毅の手をぐいぐいと引いて促した。
楽毅は幼い頃、楽間にも同じように手を引かれて祭りを回ったことを思い出し、ふと笑みをこぼした。
いまだ定まらぬ己の身の置き所など、考えなければならない問題は山程あったが、今日だけはそれを忘れて楽しもうと、彼女は思った。
楽毅は李勝と。楽乗は李同と。翠は楽間と李何と。自然とそんな組み合わせが出来上がり、それぞれ思い思いに通りを巡る。
「楽毅様、先ほどから白煙と共になんとも芳ばしい香りを漂わせているあれは何ですか?」
幼子のように好奇に瞳を輝かせながら李勝が問う。
「ああ、あれは肉まんです」
「肉まん? 肉まんとは何ですか?」
「味付けをしたお肉を饅頭生地で包んで蒸し上げたお菓子です。数年前から流行り始めたのですよ」
楽毅の説明に感嘆の声を漏らしながらも、彼女の視線は次々と蒸し上がってゆく肉まんに釘付けだった。
「食べたこと無いのですか?」
李勝は小さくうなずくと、ゴクリと生唾を飲みこんだ。
「では、一緒にいただきましょう」
そう言うと楽毅は店の前に赴き、肉まんを二つ購入して戻ってきた。
「さあ、温かい内にどうぞ」
「ありがとうございます。あの、おいくらでしょうか?」
「いいえ、これはわたしからのささやかな贈り物です。李勝どのはいつも熱心に学ばれてますから」
「よろしいのですか?」
楽毅はコクリとうなずく。
おずおずと肉まんを受け取る李勝。包みに使っている笹の葉越しからも、その温もりが伝わる。
「ありがとうございます。いただきます」
肉まんを口に頬張ると、とたんに生地から溢れ出した肉汁が口内に満ちてゆく。
「おいしい!」
ふかふかの生地と柔らかい肉という初めて味わう取り合わせは、彼女を大いに驚かせた。
「気に入っていただけて何よりです。孟嘗君も肉まんが大層お気に入りでして、十個も平らげてなお足りぬと申しておりました」
「十個も⁉」
李勝は目を丸くした。
たしかに肉まんはおいしい。しかし、ひとつでもそれなりに総量があり、想像しただけで胸焼けしそうだった。
「さすが孟嘗君です。懐だけでなく胃袋まで寛容とは」
ポツリと李勝が漏らしたその言葉は言い得て妙だと、楽毅は思わず声に出して笑わずにはいられなかった。
こうして二人は通りを巡った。
李勝が露店に並ぶものを物珍しげに眺めてはいろいろと訊ねてくるので、楽毅は退屈することは無かった。