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第8話 さて、何と答えたものか

 ──さて、何と答えたものか。


 趙与ちょうよはこのわずかな時間で、思考を限界まで巡らせる。


 まず、趙章ちょうしょうが次の王となった場合、趙与ちょうよはどのような扱いになるのだろうか?


 両者の間に軋轢あつれきは無い。しかし、先の戦で趙章ちょうしょうは大敗し、後を引き継いだ趙与ちょうよは逆に武功を挙げた。そのことが後々わだかまりとなり、大きく尾を引く可能性もある。それ以前に、趙章ちょうしょうの背後には常に大夫たいふ田不礼でんぶれいがいる。趙章ちょうしょうが王となれば間違いなくこの男が宰相さいしょうになるだろう。しかし、彼が求めるものは己の利権拡大のみであり、趙章ちょうしょうはそのための傀儡操り人形に過ぎない。


 ──田不礼でんぶれいの如く佞臣ねいしんの捨て駒にされるのだけはご免だ。


 趙与ちょうよはそう強く思った。


 一方、趙何ちょうかが王となった場合はどうであろう?


 たしかに現段階では趙何ちょうかが王になった方が国としてよい方向に向かう可能性が高い。しかし、彼は思慮深い性格ゆえに父である武霊王ぶれいおうのように深謀を巡らせたり、進んで軍を動かすことは無いように思われる。だとすれば、趙与ちょうよが用いられる機会が激減するのは明白だ。

 戦場に生き甲斐を求め、戦場でしか自らを活かす術を知らない趙与ちょうよにとって、それは死にも等しいほどの苦痛であった。


 ──結局、私を正当に評価し、使いこなせる主はこの方しかおらぬということか。


 そういう結論に至った趙与ちょうよは、


「主上の思う通りになされるのがよろしいかと」


 当たり障りの無い返答をするのだった。


「ずいぶんと煮え切らない言葉だな。何の参考にもならぬ」


 フン、と武霊王ぶれいおうは鼻を鳴らす。

 消化不良のような不機嫌さを抱かせる結果となったが、趙何ちょうかを太子に据えることはもう決定事項であり、武霊王ぶれいおうはそれを実行するための後押しを求めているのだろう、と趙与ちょうよは看破していた。


 武霊王ぶれいおうという人物は何でも独断で決定し実行する独裁者と思われがちだが、その実計算深い人間であった。

 以前、胡服騎射こふくきしゃという異文化を取り込もうとした際も、彼は反対する家臣を理詰めをもって根気強く説得し、結果軍事改革を成功させたことがある。

 そんな例からも、武霊王ぶれいおうは家臣を愛しているがゆえ、彼らに不満を抱かせず必ず納得させられるような理由を──空気感を作り出そうとしているのだ。


 だから、趙与ちょうよはこのわずかな時間の中で思考を極限まで巡らせ、最適解を導き出した。


「私如きが口出し出来るような問題ではございませぬ故。王権に関わる重要な事項は畢竟ひっきょう、主上自らがすべての責をってご決断なさるのが道理かと」


 趙与ちょうよの言葉に武霊王ぶれいおうは思わず、むむむ、と唸った。

 しかし、しばらくして吹っ切れたようにひとつ大きくうなずくと、


「貴様らしい、人を食ったような実に不愉快な詭弁だが、たしかにその通りだ。王は俺だ。俺が決めないで一体誰が決めるというのだ」


 まるで自らを鼓舞するように言う。


 趙与ちょうよはホッと胸を撫で下ろす。

 政争にも繋がりかねない厄介事であり、あざとい何者かが聞き耳を立てている可能性もある。迂闊うかつにどちらかを援護するようなことを口走ろうものなら、たちまちもう一方の勢力から目のかたきにされるのは明らかだ。

 こういう時、誰からも恨みを買うこと無く立ち回るすべはただひとつ。中立であり続けること。それが長年の経験から導き出した、趙与ちょうよの処世術であった。


「ようやく胸のつかえが取れた。礼を言うぞ」

「もったいないお言葉でございます」


 謙遜の態度を示す趙与ちょうよ

 実際、武霊王ぶれいおうは先ほどの陰鬱な印象と打って変わり、まるで少年のような朗らか笑みを浮かべていた。


「そういえば今日は俺に用があって来たのだったな。申してみよ」


 上機嫌の武霊王ぶれいおう

 趙与ちょうよは、楽毅がくきの件を申請するなら今しか無いと直感した。


「はっ。本日参ったのは他でもありません。楽毅がくきの処遇についてでございます」

楽毅がくき……あの娘か」


 その名を聞くや否や、武霊王ぶれいおうの顔が瞬時に渋みを帯びる。


 武霊王ぶれいおうとしても彼女の才能は認めており、殺してしまうには惜しい逸材であることに変わりない。

 しかし、女性が戦場に立つことを──女性が男性を差し置いて前に立つことを嫌悪している彼にはどうしても楽毅がくきを登用する気にはなれず、悩みのタネになっているのだ。


 趙与ちょうよもそれは百も承知であり、


「主上の悲願である中華大陸統一を成し遂げるにあたり、楽毅がくきの力は必要不可欠です。用いれば必ずや主上の覇道のたすけとなりましょう」


 根気強く説得を試みる。


 武霊王ぶれいおうは目を閉じ、深いため息を吐いた。

 それからしばらく、重苦しい沈黙の時が続く。果てしなく長い時の流れに迷いこんだような錯覚に陥りながらも、趙与ちょうよはそれ以上の進言は避け、ただじっと待ち続けた。


「俺はあやつの国を滅ぼした。それでも俺のために尽くすという保証はあるのか?」


 ようやく目を開いた武霊王ぶれいおうが問う。


わだかまりもありましょう。しかし、主上自らが寛大なるご英断をもって楽毅がくきを迎えたなら、よろこんで仕えるでしょう」

「もしも楽毅がくきが他国に走ったならどうなる?」

「主上を脅かす天敵となるでしょう」


 趙与ちょうよの答弁に熱がこもる。

 武霊王ぶれいおうは再び考えこんだ。

 趙与ちょうよは伝えるべきことはすべて述べたので、ここでもジッと黙して主の決断を待った。


「……わかった。近い内に対処しよう」


 ひとつうなずくと、武霊王ぶれいおうはそう告げた。


「はっ、かしこまりました。お手間をいただき、恐悦至極に存じます」


 拝礼を残し、趙与ちょうよきびすを返す。


 即断を期待していただけにやや肩すかしを食らった形となったが、近い内に楽毅がくきに吉報がもたらされるだろう。



 しかし、この時武霊王ぶれいおうがその期待とは異なる決断を下していたことを、趙与ちょうよは知るよしも無かった。

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