──さて、何と答えたものか。
趙与はこのわずかな時間で、思考を限界まで巡らせる。
まず、趙章が次の王となった場合、趙与はどのような扱いになるのだろうか?
両者の間に軋轢は無い。しかし、先の戦で趙章は大敗し、後を引き継いだ趙与は逆に武功を挙げた。そのことが後々蟠りとなり、大きく尾を引く可能性もある。それ以前に、趙章の背後には常に大夫の田不礼がいる。趙章が王となれば間違いなくこの男が宰相になるだろう。しかし、彼が求めるものは己の利権拡大のみであり、趙章はそのための傀儡に過ぎない。
──田不礼の如く佞臣の捨て駒にされるのだけはご免だ。
趙与はそう強く思った。
一方、趙何が王となった場合はどうであろう?
たしかに現段階では趙何が王になった方が国としてよい方向に向かう可能性が高い。しかし、彼は思慮深い性格故に父である武霊王のように深謀を巡らせたり、進んで軍を動かすことは無いように思われる。だとすれば、趙与が用いられる機会が激減するのは明白だ。
戦場に生き甲斐を求め、戦場でしか自らを活かす術を知らない趙与にとって、それは死にも等しいほどの苦痛であった。
──結局、私を正当に評価し、使いこなせる主はこの方しかおらぬということか。
そういう結論に至った趙与は、
「主上の思う通りになされるのがよろしいかと」
当たり障りの無い返答をするのだった。
「ずいぶんと煮え切らない言葉だな。何の参考にもならぬ」
フン、と武霊王は鼻を鳴らす。
消化不良のような不機嫌さを抱かせる結果となったが、趙何を太子に据えることはもう決定事項であり、武霊王はそれを実行するための後押しを求めているのだろう、と趙与は看破していた。
武霊王という人物は何でも独断で決定し実行する独裁者と思われがちだが、その実計算深い人間であった。
以前、胡服騎射という異文化を取り込もうとした際も、彼は反対する家臣を理詰めをもって根気強く説得し、結果軍事改革を成功させたことがある。
そんな例からも、武霊王は家臣を愛しているが故、彼らに不満を抱かせず必ず納得させられるような理由を──空気感を作り出そうとしているのだ。
だから、趙与はこのわずかな時間の中で思考を極限まで巡らせ、最適解を導き出した。
「私如きが口出し出来るような問題ではございませぬ故。王権に関わる重要な事項は畢竟、主上自らがすべての責を以ってご決断なさるのが道理かと」
趙与の言葉に武霊王は思わず、むむむ、と唸った。
しかし、しばらくして吹っ切れたようにひとつ大きくうなずくと、
「貴様らしい、人を食ったような実に不愉快な詭弁だが、たしかにその通りだ。王は俺だ。俺が決めないで一体誰が決めるというのだ」
まるで自らを鼓舞するように言う。
趙与はホッと胸を撫で下ろす。
政争にも繋がりかねない厄介事であり、あざとい何者かが聞き耳を立てている可能性もある。迂闊にどちらかを援護するようなことを口走ろうものなら、たちまちもう一方の勢力から目の敵にされるのは明らかだ。
こういう時、誰からも恨みを買うこと無く立ち回る術はただひとつ。中立であり続けること。それが長年の経験から導き出した、趙与の処世術であった。
「ようやく胸の痞えが取れた。礼を言うぞ」
「もったいないお言葉でございます」
謙遜の態度を示す趙与。
実際、武霊王は先ほどの陰鬱な印象と打って変わり、まるで少年のような朗らか笑みを浮かべていた。
「そういえば今日は俺に用があって来たのだったな。申してみよ」
上機嫌の武霊王。
趙与は、楽毅の件を申請するなら今しか無いと直感した。
「はっ。本日参ったのは他でもありません。楽毅の処遇についてでございます」
「楽毅……あの娘か」
その名を聞くや否や、武霊王の顔が瞬時に渋みを帯びる。
武霊王としても彼女の才能は認めており、殺してしまうには惜しい逸材であることに変わりない。
しかし、女性が戦場に立つことを──女性が男性を差し置いて前に立つことを嫌悪している彼にはどうしても楽毅を登用する気にはなれず、悩みのタネになっているのだ。
趙与もそれは百も承知であり、
「主上の悲願である中華大陸統一を成し遂げるにあたり、楽毅の力は必要不可欠です。用いれば必ずや主上の覇道の援けとなりましょう」
根気強く説得を試みる。
武霊王は目を閉じ、深いため息を吐いた。
それからしばらく、重苦しい沈黙の時が続く。果てしなく長い時の流れに迷いこんだような錯覚に陥りながらも、趙与はそれ以上の進言は避け、ただじっと待ち続けた。
「俺はあやつの国を滅ぼした。それでも俺のために尽くすという保証はあるのか?」
ようやく目を開いた武霊王が問う。
「蟠りもありましょう。しかし、主上自らが寛大なるご英断をもって楽毅を迎えたなら、よろこんで仕えるでしょう」
「もしも楽毅が他国に走ったならどうなる?」
「主上を脅かす天敵となるでしょう」
趙与の答弁に熱がこもる。
武霊王は再び考えこんだ。
趙与は伝えるべきことはすべて述べたので、ここでもジッと黙して主の決断を待った。
「……わかった。近い内に対処しよう」
ひとつうなずくと、武霊王はそう告げた。
「はっ、かしこまりました。お手間をいただき、恐悦至極に存じます」
拝礼を残し、趙与は踵を返す。
即断を期待していただけにやや肩すかしを食らった形となったが、近い内に楽毅に吉報がもたらされるだろう。
しかし、この時武霊王がその期待とは異なる決断を下していたことを、趙与は知る由も無かった。