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第7話 何でも見通せるのだな

 趙与ちょうよは、まるで少年のころに戻ったかのように意気揚々と弾むような足取りで宮中を歩んでいた。


 主君である武霊王ぶれいおうへの拝謁を申し出てから早一週間以上が経ったが、今日ようやくお召しがかかった。正装に身を包むのも、主君に直接謁見するのも実に久し振りであった。

 普通であれば緊張で全身が強張こわばるような場面であるが、趙与ちょうよの心はまるで愛しい恋人とのたまさかの逢瀬おうせに向かうような、そんな期待と高揚に満ちていた。


「お待ちしておりました、趙与ちょうよ様……」


 武霊王ぶれいおういまそかる御殿の前で、ひとりの男が柳のようにたおやかな声で呼び止めた。実際にこの男は柳のように細長い体躯からだをしており、そして女性と見まごうような艶と白い肌を備えていた。


李兌りたい……であったか?」


 趙与ちょうよは立ち止まり、その名をつぶやいた。  

 李兌りたいと呼ばれた男はいささかも揺るがぬ表情のまま静かにうなずき、


「剣を預らせていただきます」


 事務的な口調で両手の平を前に差し出した。

 やや顔をしかめて趙与ちょうよは腰に帯びた剣を外し、それを李兌りたいに手渡すとすぐに武霊王ぶれいおうのいる御殿へと乗りこんでゆく。


 ──あの者どうにも苦手だ。


 異様に静かで薄暗い通路を進みながら、趙与ちょうよはふと思った。


 李兌りたい──

 数年ほど前に武霊王ぶれいおう近習きんじゅとして仕えるようになり、今では武霊王ぶれいおう一番のお気に入りと言っても過言ではない。

 彼がどこの出身でどういった経緯で仕えるようになったのか、趙与ちょうよは全く知らない。たしかにあの若さで王の信頼を一身に集めているのだから、才能はあるのだろう。しかし、趙与ちょうよには割り切れない何かが胸の奥にこごっているのだ。


 長年命がけで仕え、地道に武勲を積み上げてきた趙与ちょうよだが、瞬く間に成り上がった李兌りたいに嫉妬の念を抱いている訳では無い。ただ単純に、ウマが合わないだけなのだろう。性格的なものから何から何まで。


 そうこう考えている内に、前方に玉座が現れる。その背に掛けられた虎の毛皮が異彩を放っている。それは武霊王ぶれいおうのお気に入りで、印度インドの商人からわざわざ買いつけたものだ。

 趙与ちょうよは気を取り直すように一度かぶりを振り、期待感と緊張感を伴って前進を再開する。

 足を組み、片肘に頬杖をつきながら、どこか気だるいような面持ちで視線を真横に向けている武霊王ぶれいおうの姿が徐々に明瞭になってゆく。


「主上におかれましては、ご機嫌麗しゅうご様子と存知たてまつりまして、誠に結構なことと承ります」


 拝礼と共に定例の挨拶を向ける趙与ちょうよ。しかし武霊王ぶれいおうは視線をそちらに向けることも無く、ああ、と陰鬱そうに吐き出す。


 ──これはどうやら楽毅がくきどころでは無さそうな雰囲気だな。


 今度こそ楽毅がくきを重職に迎え入れられるよう進言に来た趙与ちょうよであったが、武霊王ぶれいおうの気分が思わしくないことを悟り、


「何かございましたか?」


 まずは彼の機嫌を取るのに専念する。


「……姚妃ようひがな、病で伏せっておるのだ」


 ひとつ大きくため息をついて、しかし視線はそのままに、武霊王ぶれいおうはつぶやいた。


 姚妃ようひ武霊王ぶれいおうの寵姫で、公子こうし趙何ちょうかの母・呉孟姚ごもうようのことである。

 その姚妃ようひが重い病にかかっていることはすでに重臣たちの間では周知の事実であり、実際にその間でも武霊王は戦を止めることも無く【中山国ちゅうざんこく】遠征を完遂させた。


 その武霊王ぶれいおうが、今更その件で思い悩むのだろうか?


 そう感じた趙与ちょうよは、


姚妃ようひ様の件は私も存じ上げております。大変お気の毒に思います。しかし、主上の懸念はそれだけでは無いようにお見受け致しますが?」


 思い切ってその疑問を向けてみた。

 武霊王ぶれいおうは、一瞬ハッと目を大きくみひらき、そこではじめて野性の獣の如く鋭い眼光を趙与ちょうよへと向けた。


「貴様は本当に何でも見通せるのだな」

「そんなことはございません。ただ、そう感じただけでございます」

「オレは頭のキレる男は好きだが、キレ過ぎる男はキライだ」

「ハハッ、肝に命じます」


 恫喝どうかつじみた武霊王ぶれいおうの言葉を、趙与ちょうよ飄々ひょうひょうとした態度でかわしてゆく。

 無能な者のみならず、有能すぎる者すらも容赦なく切り捨てる主君の性質を熟知している趙与ちょうよは、決してでしゃばりすぎないよう適度に主張するすべを会得しているのだ。


 武霊王ぶれいおうはすっかり怒気を抜かれ、ふう、とため息を吐いた。


「思えば俺はこれまで戦に次ぐ戦で、家庭を省みることは無かったように思う」


 視線を虚空に向け、どこか懐かしむような口調で語り出す。

 天下に勇名を轟かす覇王とは思えぬしおらしい言葉に、さすがの趙与ちょうよも返答にきゅしし、はぁ、と適当に相づちを打つしかなかった。


「だから、ひとつだけでも姚妃ようひのために何かしてやりたいと思った」


 ここで武霊王ぶれいおうは再び大きなため息を吐く。しかし、その先の言葉はなかなか出て来なかった。


「それは大変良きことと存じます。姚妃ようひ様もさぞかしよろこばれるでしょう」


 しびれを切らしたように、趙与ちょうよが一言加える。

 しかし、決して話を急かすような言動は避ける。武霊王ぶれいおうの方から話を切り出させるように、それをさせやすい状況を演出しているのだ。


 それが功を然してか、武霊王ぶれいおうはようやく趙与ちょうよの顔をまっすぐに見据える。悩みを打ち明ける覚悟を決めたようだ。


「俺は、姚妃ようひのために……公子こうし趙何ちょうかを次の王にしたいと思う」

趙何ちょうか様を⁉」


 しかし、武霊王ぶれいおうの口から発せられたその言葉は国家の枢要すうように関わる重大なもので、趙与ちょうよの想像の範疇はんちゅうを遥かに超えるものであった。


 ──まさか、主上がそのような大それたことをお考えだったとは。これは私の手に余るぞ。


 趙与ちょうよの背筋に、ぞわりと震えが走る。


 公子こうしである趙何ちょうかを王にするということはすなわち、その義兄あにである太子たいし趙章ちょうしょうを廃嫡するということである。


 この中華大陸では古来より王権は長子が継ぐものであり、その責務に堪えられないほどの重大な欠陥でもない限り、たとえ王といえども軽々しく移譲出来るものではない。


 たしかに趙与ちょうよの目から見ても趙章ちょうしょうは粗野粗暴であり、王としての資質は乏しい。しかし、それをどうにかして支えてゆくのが臣下の努めである。

 趙何ちょうかに関しては、直に話したことは無いが、巷間こうかんの評判や娘である趙奢ちょうしゃから伝え聞いた話を加味すれば、慈悲と慈愛の精神に満ち、政治に並々ならぬ興味を抱いている聡明な御子という印象だ。


 こうして比較してみれば、趙何ちょうかの方が王にふさわしいと、きっと多くの者が感じることだろう。しかし、聡明な子供だからと言って、王になっても聡明であり続けるとは限らないし、逆に粗暴な青年が王になったとたん豹変する可能性もある。


 百戦錬磨の趙与ちょうよってしても、答えにきゅうする難題であった。

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