翌日──
楽毅たちが住まう新居に、前日の老人が訪ねて来た。その傍には、二人の少年とひとりの少女が一緒にいた。
「あら、先日はお世話になりました」
「とんでもございません。私は李翁と申します。名乗るのが遅れてしまい、面目次第もございません」
軒先で出迎えた楽毅に、老人はそう名乗る。
「李翁どの、ようこそお越しくださいました。所でそちらの方たちは?」
楽毅の問いに李翁は、ご紹介致します、と子供たちの横に並び、
「こちらが私の不肖の孫で、李同と申します。その隣にいらっしゃいますのは、親戚の御兄妹で李何と李勝でございます」
手前から順に紹介していった。
李同──キリッと締まった目鼻立ちが凛々しい少年だ。
李何──李同とは逆に線が細く女の子のような面立ちをした少年だ。
李勝──大きな宝珠のように瞳が澄んだ、凛とした女の子だ。
「まあ、みなさん利発そうな方たちですわね」
「皆楽毅様に並々ならぬ興味と憧憬を抱いておりまして、ぜひ直接お会いしたいとせがまれ、連れて参った次第でございます」
「あらあら、わたしはそんな大層な人間ではありませんのに」
李翁の言葉に、楽毅は気恥ずかしそうにがぶりを振った。
「とんでもない。『寡兵よく大軍破る』を実行した楽毅様の軍事の才は、いずれこの中華大陸中に知れ渡ることでしょう!」
そう李同が興奮気味に言うと、
「いや、楽毅どのの天賦の才はむしろ政治力にこそあると私は思う。宰相に任じられればきっと古の名臣・管仲にも劣らぬ仁政を敷くであろう」
李何がそれを宥めるような冷静な口調で言い、
「いいえ、兄上。かの大軍師である孫家の門を叩き、天下に名立たる超偶像・孟嘗君とも親交があるというその人脈こそが天賦の才と言えます」
李勝が瞳を爛々と輝かせながら説くのだった。
おおよそ年下の子供とは思えない硬い口調とその内容に、楽毅は戸惑いを隠せなかった。
「これこれ、ご本人を前にそのような話はするものではないぞ。見なさい、楽毅様が困っておられるではないか」
そんな彼女の心情を察知した李翁が、三人を窘める。
「これは大変失礼致しました」
三人はハッと我に帰ると、すぐに楽毅に頭を下げた。
「いいえ、少し気恥ずかしかっただけで、頭を下げられるほどのことではありませんから」
楽毅は、目上の者の忠告を素直に受け入れられるこの三人に好感を抱いた。
「この子らの楽毅様への興味が並々ならぬことがおわかりいただけたと思います。そこでひとつ、楽毅様にお願いしたきことがございます」
李翁が手にしていた杖で一度足元をカツンと突き、楽毅の方に向き直る。
「何でございましょう?」
「どうかその子等と遊んでやっていただきたいのです。もちろん、楽毅さまのご都合のよろしい時だけで構いません」
思いがけない依頼に楽毅は驚き、三人の顔を改めて見回す。純真でまっすぐな視線が、彼女を貫いている。
李翁が言う遊びというのが、ただの遊びで無いことを楽毅は察した。
──恐らく、教育係になってほしい、ということでしょう。
果たして自分にそれが出来るのか、楽毅はしばらく思惟してから、
「わかりました。わたしでよろしければ、いつでも歓迎いたします」
そう答えた。
「本当でございますか? ありがとうございます!」
三人は花が咲いたような年相応の笑みで楽毅に一礼した。
結局、この日は挨拶だけを残し、彼らは楽毅たちの新居を後にした。
「楽毅お姉様の勇名が、あのような一般の子供にまで知れ渡るのは喜ばしいことです」
後ろで事の成り行きを見守っていた楽乗が、自分のことのように誇らしげな口調で言った。
「一般の子供……というワケでもなさそうです」
しかし、楽毅は真剣な面持ちでつぶやく。
「え? どういうことですか、お姉様?」
「李同どのは李翁の血族だと思います。ですが、親戚の子供と仰っていた李何どのと李勝どのの御兄妹は恐らく、【趙】の公子・趙何様と公女・趙勝姫様なのではないでしょうか」
「えっ? まさか、先ほどの子供たちの中に【趙】の公族が⁉」
「もちろん、はっきりとした確証があるワケでは無いのですが。しかし、先ほど李翁どのはあの二人に対して思わず敬語を使う場面がありました。それに、どこと無く身分賎しからぬ気品を感じたのです」
「李何が趙何。李勝が趙勝姫。……た、たしかに偶然だとしたらあまりにも出来過ぎのような気がします」
冷静な口調でそう答える楽毅を、楽乗はただ茫然と開口した状態で見つめていた。
「さすが、楽毅っスね。その通りっスよ」
その時、李翁たちと入れ替わるようにして現れたひとりの少女が、彼女たちの疑念を一掃するような快活な口調で言った。
それは、楽毅の親友で同じ邯鄲に住んでいる趙奢だった。
「あら、趙奢。見ていたの?」
「ああ。改めて挨拶しようと思って来てみたら、おもしろい取り合わせだったっスからね」
淡い金色を散りばめた衣に身を包んだ趙奢が、昨日とはうって変わって跳ねるような軽い足取りで楽毅の元へ歩み寄る。
「アナタは趙何様や趙勝姫様とはお知り合いなの?」
「まあ、ジブンも一応は公族の近縁っスからね。趙何公子はともかく、趙勝姫公女とは小さいころよく一緒に遊んでいたんスよ」
「そう。でも、なぜ公族の方が李翁と一緒にわたしを訪ねていらっしゃったのかしら?」
「李翁は昔、軍人として【趙】王に代々仕えていた重鎮っス。王族や公族にいまだに顔が利くらしいっスからね。それに、李翁は趙何公子を後援する派閥の長で、公子にとっては先生みたいな存在なんスよ」
「李翁は王族にまで影響力を持った方なのですか……」
趙奢の説明に、楽毅は得心がいったように大きくうなずく。しかし、それと同時に彼の行動の意図を考察してみると、彼女は何か大きなうねりのようなただ事ならぬ事態を相起するのだった。
「きっと李翁は、楽毅に公子の右腕になってもらおうとしてるんじゃないんスかねェ」
そんな想像をあっさりと見透かしたかのように、趙奢は軽く言ってのける。
「まさか」
「いンや、ぜんぜん不思議なことじゃあないっスよ。楽毅の実力からしたら充分考えられるっス」
楽毅はふと、趙何に仕えている自分の姿を相起してみた。
たしかに彼は聡明そうで、以前から耳にしていた評判と先ほど交わした会話を加味するに、政治に重きを置き、民を慈しむ名君になる可能性を充分に感じさせた。
しかし、彼は公子であり、すでに武霊王は長男である趙章を太子に──後継ぎに定めている。
──きっと、趙何様は趙章に疎まれてしまう。
楽毅は趙章を知っている。知っているどころか戦場で直接対峙したことがある。
楽毅はその時、趙章の率いる軍を完膚なきまでに粉砕し、彼に多大な屈辱を刻みつけた。そんな彼女が義弟である趙何に仕えていると知ったら、きっと趙章は楽毅共々趙何に理不尽な言いがかりをつけて抹殺しようとするかもしれない。
かつての主君であった姫尚が良い例だ。彼は聡明で清廉な好青年で、何の落ち度も無いにも関わらず先代の【中山】王に疎まれ続け、不遇の日々を送っていた。
──出来れば、武霊王や趙章のいる【趙】には仕えたくない。
それが楽毅の本音であった。
ジブンもさ、と趙奢がためらいがちな口調で話し出した。
「父さんと同じで楽毅が【趙】に仕えてくれたらうれしいんスよ。ジブンと楽毅が組めば敗ける気がしないっスから」
それを聞いた楽乗が、何を勝手なことを、と心の中で怒りをあらわにする。
しかし、趙奢は打って変わって真剣な面持ちになり、
「でも、これは楽毅自身の問題なんスよね。他者の思惑もあるだろうけど、答えは自身で出さなきゃならない。だからサ、じっくり悩むことっス。後悔だけはしないように」
諭すように語る。
「そうね。もう後悔はしたくないもの。ありがとう、趙奢。時間はかかるかも知れないけど、きちんと悩んで悩みぬいて答えを出してみせるわ」
親友からの言葉に、楽毅は何か吹っ切れたような明るい笑顔で応えた。
──なんだ、意外といい人ではないか。
これを見て楽乗は、趙奢に対する認識を改めた。
「それがいいっス。ジブン、本当はもっと熱心に勧誘したかったんスけどねェ。後ろのデッカくてコワイお姉ちゃんがずっと睨んでくるから、今日はこれくらいにしておくっスよ」
しかし、趙奢はそう言って楽乗にいたずらっぽい笑みを向けてからかうのだった。
「わ、私は睨んでなど──」
「よっぽど楽毅のことが好きなんスね。ジブンと同じ」
けらけらと笑い、趙奢はもと来た道を駆けながら去っていった。
思わぬ言葉を向けられた楽乗はドキッと胸の鼓動が高鳴り、茫然と開口したままどんどんと顔を紅潮させてゆく。
「……やっぱりイヤなヤツだ」
趙奢の後ろ姿が完全に消えたこと、ようやく楽乗は搾り出すようにつぶやくのだった。