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第5話 後悔だけはしないように

 翌日──


 楽毅がくきたちが住まう新居に、前日の老人が訪ねて来た。その傍には、二人の少年とひとりの少女が一緒にいた。


「あら、先日はお世話になりました」

「とんでもございません。私は李翁りおうと申します。名乗るのが遅れてしまい、面目次第もございません」


 軒先で出迎えた楽毅がくきに、老人はそう名乗る。


李翁りおうどの、ようこそお越しくださいました。所でそちらの方たちは?」


 楽毅がくきの問いに李翁りおうは、ご紹介致します、と子供たちの横に並び、


「こちらが私の不肖の孫で、李同りどうと申します。その隣にいらっしゃいますのは、親戚の御兄妹で李何りか李勝りしょうでございます」


 手前から順に紹介していった。


 李同りどう──キリッと締まった目鼻立ちが凛々しい少年だ。

 李何りか──李同りどうとは逆に線が細く女の子のような面立ちをした少年だ。

 李勝りしょう──大きな宝珠のように瞳が澄んだ、凛とした女の子だ。


「まあ、みなさん利発そうな方たちですわね」

「皆楽毅がくき様に並々ならぬ興味と憧憬を抱いておりまして、ぜひ直接お会いしたいとせがまれ、連れて参った次第でございます」

「あらあら、わたしはそんな大層な人間ではありませんのに」


 李翁りおうの言葉に、楽毅がくきは気恥ずかしそうにがぶりを振った。


「とんでもない。『寡兵かへいよく大軍破る』を実行した楽毅がくき様の軍事の才は、いずれこの中華大陸中に知れ渡ることでしょう!」


 そう李同りどうが興奮気味に言うと、


「いや、楽毅がくきどのの天賦の才はむしろ政治力にこそあると私は思う。宰相さいしょうに任じられればきっといにしえの名臣・管仲かんちゅうにも劣らぬ仁政を敷くであろう」


 李何りかがそれをなだめるような冷静な口調で言い、


「いいえ、兄上。かの大軍師であるそん家の門を叩き、天下に名立たる超偶像スーパーアイドル孟嘗君もうしょうくんとも親交があるというその人脈こそが天賦の才と言えます」


 李勝りしょうが瞳を爛々らんらんと輝かせながら説くのだった。

 おおよそ年下の子供とは思えない硬い口調とその内容に、楽毅がくきは戸惑いを隠せなかった。


「これこれ、ご本人を前にそのような話はするものではないぞ。見なさい、楽毅がくき様が困っておられるではないか」


 そんな彼女の心情を察知した李翁りおうが、三人をたしなめる。


「これは大変失礼致しました」


 三人はハッと我に帰ると、すぐに楽毅がくきに頭を下げた。


「いいえ、少し気恥ずかしかっただけで、頭を下げられるほどのことではありませんから」


 楽毅がくきは、目上の者の忠告を素直に受け入れられるこの三人に好感を抱いた。


「この子らの楽毅がくき様への興味が並々ならぬことがおわかりいただけたと思います。そこでひとつ、楽毅がくき様にお願いしたきことがございます」


 李翁りおうが手にしていた杖で一度足元をカツンと突き、楽毅がくきの方に向き直る。


「何でございましょう?」

「どうかその子等と遊んでやっていただきたいのです。もちろん、楽毅がくきさまのご都合のよろしい時だけで構いません」


 思いがけない依頼に楽毅がくきは驚き、三人の顔を改めて見回す。純真でまっすぐな視線が、彼女を貫いている。

 李翁りおうが言うというのが、ただの遊びで無いことを楽毅がくきは察した。


 ──恐らく、教育係になってほしい、ということでしょう。


 果たして自分にそれが出来るのか、楽毅がくきはしばらく思惟しいしてから、


「わかりました。わたしでよろしければ、いつでも歓迎いたします」


 そう答えた。


「本当でございますか? ありがとうございます!」


 三人は花が咲いたような年相応の笑みで楽毅がくきに一礼した。




 結局、この日は挨拶だけを残し、彼らは楽毅がくきたちの新居を後にした。


楽毅がくきお姉様の勇名が、あのような一般の子供にまで知れ渡るのは喜ばしいことです」


 後ろで事の成り行きを見守っていた楽乗がくじょうが、自分のことのように誇らしげな口調で言った。


「一般の子供……というワケでもなさそうです」


 しかし、楽毅がくきは真剣な面持ちでつぶやく。


「え? どういうことですか、お姉様?」

李同りどうどのは李翁りおうの血族だと思います。ですが、親戚の子供と仰っていた李何りかどのと李勝りしょうどのの御兄妹は恐らく、【ちょう】の公子・趙何ちょうか様と公女・趙勝姫ちょうしょうき様なのではないでしょうか」

「えっ? まさか、先ほどの子供たちの中に【ちょう】の公族が⁉」

「もちろん、はっきりとした確証があるワケでは無いのですが。しかし、先ほど李翁りおうどのはあの二人に対して思わず敬語を使う場面がありました。それに、どこと無く身分賎しからぬ気品を感じたのです」

李何りか趙何ちょうか李勝りしょう趙勝姫ちょうしょうき。……た、たしかに偶然だとしたらあまりにも出来過ぎのような気がします」


 冷静な口調でそう答える楽毅がくきを、楽乗がくじょうはただ茫然と開口した状態で見つめていた。


「さすが、楽毅がくきっスね。その通りっスよ」


 その時、李翁りおうたちと入れ替わるようにして現れたひとりの少女が、彼女たちの疑念を一掃するような快活な口調で言った。

 それは、楽毅がくきの親友で同じ邯鄲かんたんに住んでいる趙奢ちょうしゃだった。


「あら、趙奢ちょうしゃ。見ていたの?」

「ああ。改めて挨拶しようと思って来てみたら、おもしろい取り合わせだったっスからね」


 淡い金色を散りばめた衣に身を包んだ趙奢ちょうしゃが、昨日とはうって変わって跳ねるような軽い足取りで楽毅がくきの元へ歩み寄る。


「アナタは趙何ちょうか様や趙勝姫ちょうしょうき様とはお知り合いなの?」

「まあ、ジブンも一応は公族の近縁っスからね。趙何ちょうか公子こうしはともかく、趙勝姫ちょうしょうき公女こうじょとは小さいころよく一緒に遊んでいたんスよ」

「そう。でも、なぜ公族の方が李翁りおうと一緒にわたしを訪ねていらっしゃったのかしら?」

李翁りおうは昔、軍人として【ちょう】王に代々仕えていた重鎮っス。王族や公族にいまだに顔が利くらしいっスからね。それに、李翁りおう趙何ちょうか公子こうしを後援する派閥の長で、公子こうしにとっては先生みたいな存在なんスよ」

李翁りおうは王族にまで影響力を持った方なのですか……」


 趙奢ちょうしゃの説明に、楽毅がくきは得心がいったように大きくうなずく。しかし、それと同時に彼の行動の意図を考察してみると、彼女は何か大きなうねりのようなただ事ならぬ事態を相起するのだった。


「きっと李翁りおうは、楽毅がくき公子こうしの右腕になってもらおうとしてるんじゃないんスかねェ」


 そんな想像をあっさりと見透かしたかのように、趙奢ちょうしゃは軽く言ってのける。


「まさか」

「いンや、ぜんぜん不思議なことじゃあないっスよ。楽毅がくきの実力からしたら充分考えられるっス」


 楽毅がくきはふと、趙何ちょうかに仕えている自分の姿を相起してみた。


 たしかに彼は聡明そうで、以前から耳にしていた評判と先ほど交わした会話を加味するに、政治に重きを置き、民を慈しむ名君になる可能性を充分に感じさせた。

 しかし、彼は公子こうしであり、すでに武霊王ぶれいおうは長男である趙章ちょうしょう太子たいしに──後継ぎに定めている。


 ──きっと、趙何ちょうか様は趙章ちょうしょうに疎まれてしまう。


 楽毅がくき趙章ちょうしょうを知っている。知っているどころか戦場で直接対峙したことがある。

 楽毅がくきはその時、趙章ちょうしょうの率いる軍を完膚なきまでに粉砕し、彼に多大な屈辱を刻みつけた。そんな彼女が義弟おとうとである趙何ちょうかに仕えていると知ったら、きっと趙章ちょうしょう楽毅がくき共々趙何ちょうかに理不尽な言いがかりをつけて抹殺しようとするかもしれない。


 かつての主君であった姫尚きしょうが良い例だ。彼は聡明で清廉な好青年で、何の落ち度も無いにも関わらず先代の【中山ちゅうざん】王に疎まれ続け、不遇の日々を送っていた。


 ──出来れば、武霊王ぶれいおう趙章ちょうしょうのいる【ちょう】には仕えたくない。


 それが楽毅がくきの本音であった。

 ジブンもさ、と趙奢ちょうしゃがためらいがちな口調で話し出した。


「父さんと同じで楽毅がくきが【ちょう】に仕えてくれたらうれしいんスよ。ジブンと楽毅がくきが組めばける気がしないっスから」


 それを聞いた楽乗がくじょうが、何を勝手なことを、と心の中で怒りをあらわにする。

 しかし、趙奢ちょうしゃは打って変わって真剣な面持ちになり、


「でも、これは楽毅がくき自身の問題なんスよね。他者の思惑もあるだろうけど、答えは自身で出さなきゃならない。だからサ、じっくり悩むことっス。後悔だけはしないように」


 さとすように語る。


「そうね。もう後悔はしたくないもの。ありがとう、趙奢ちょうしゃ。時間はかかるかも知れないけど、きちんと悩んで悩みぬいて答えを出してみせるわ」


 親友からの言葉に、楽毅がくきは何か吹っ切れたような明るい笑顔で応えた。


 ──なんだ、意外といい人ではないか。


 これを見て楽乗がくじょうは、趙奢ちょうしゃに対する認識を改めた。


「それがいいっス。ジブン、本当はもっと熱心に勧誘したかったんスけどねェ。後ろのデッカくてコワイお姉ちゃんがずっと睨んでくるから、今日はこれくらいにしておくっスよ」


 しかし、趙奢ちょうしゃはそう言って楽乗がくじょうにいたずらっぽい笑みを向けてからかうのだった。


「わ、私は睨んでなど──」

「よっぽど楽毅がくきのことが好きなんスね。ジブンと同じ」


 けらけらと笑い、趙奢ちょうしゃはもと来た道を駆けながら去っていった。

 思わぬ言葉を向けられた楽乗がくじょうはドキッと胸の鼓動が高鳴り、茫然と開口したままどんどんと顔を紅潮させてゆく。


「……やっぱりイヤなヤツだ」


 趙奢ちょうしゃの後ろ姿が完全に消えたこと、ようやく楽乗がくじょうは搾り出すようにつぶやくのだった。

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