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第4話 諦めの悪い女ですもの

 それにしても、と趙与ちょうよはため息交じりにつぶやくと、


楽毅がくきはこうして迷いながらも自らの意思を示したというのに、うちの娘はいまだにコソコソと隠れてはいつまでもウジウジしておる」


 背後の交差点辺りに目をやり、そこに聞かせるような大きな声で言った。


 楽毅がくきたちは、何のことだろう、と首を傾げる。


 すると、のったりとした足取りでひとりの少女が角から姿を現し、目を伏せながら楽毅がくきたちの方へと歩み寄る。

 三つ編みに結わいた栗色の髪。鼻周りのそばかす。存在感あふれる大きな眼鏡。


趙奢ちょうしゃ……」


 楽毅がくきは、複雑な気持ちでその少女の名をつぶやいた。

 趙奢ちょうしゃはそわそわとした所作で、視線をあちこちに泳がせていたが、意を決したように深々と頭を下げると、


「ゴメンなさいっス、楽毅がくき!」


 彼女にしては珍しいくらいの大きな声で謝意を示した。

 どうしたの、と突然のことに楽毅がくきは戸惑いを隠せない。


楽毅がくきのお父君がこの前の戦で亡くなられたと聞いたっス。たしか、東垣とうえんを守っていたとか。でも、東垣とうえんはジブンの造った攻城兵器によって落ちたんスよね……。ジブンが楽毅がくきのお父君を殺したようなもんっス!」


 最後には嗚咽と共に、懺悔ざんげの想いを吐露する。


 ── 趙奢ちょうしゃも、思い悩んでいたんだ。


 自分と同じように親友同士で争うことに心を痛め、楽峻がくしゅんの死を自らの罪のように感じているのだろう。

 楽毅がくきはそっと、小さいが職人のようにがっちりとした彼女の手を握り、


「『全力で戦おう』って、あの時臨淄りんしでそう誓い合ったでしょう? わたしもアナタも、その通りにしただけ。何も悔いることなんて無いわ」


 まるで母親が子を諭すような、穏やかな声で言った。


「でも、ジブンは楽毅がくきの目標を潰したんスよ。『誰かが誰かの野心を食い潰す』っていう、あの時のれいさんの予言はこのことだったンすよ!」


 しかし、趙奢ちょうしゃは尚も泣きじゃくり、まるで駄々をこねるように言うのだった。

 そんな彼女の姿に、楽毅がくき喟然きぜんとして嘆息をもらした。


趙奢ちょうしゃはわたしのことを、ずいぶんと見下してくれるのね?」

「えっ?」


 突然、涼やかな口調で放たれたその言葉に、趙奢ちょうしゃは思わず顔を上げた。


「わたしの野心があれでついえたと思っているのなら、思い違いもはなはだしいわ。まあ、たしかに亡国の将というのはいろいろとバツが悪いけど。でもね、諦めたつもりなんて無いわよ。だってわたし」


 楽毅がくきは一度そらに目をやってから、


「諦めの悪い女ですもの」


 満面の笑みを浮かべて言う。


楽毅がくき……。うわあァァァァァァんッ!!」


 趙奢ちょうしゃ楽毅がくきの胸に飛びこみ、赤子のように嗚咽する。楽毅がくきはその小さな頭を優しくなでた。


「やれやれ、私はそろそろ退散するとしよう」


 二人のやり取りを見守っていた趙与ちょうよは、そう言ってきびすを返す。


「お待ちください!」


 と、楽毅がくきがその背中を呼び止める。


「深い霧が立ちこめたあの日、無人となったわたしたちの砦を落とし、武霊王ぶれいおうの救援に真っ先に駆けつけたのはアナタですね?」


 楽毅がくきが以前から抱いていた疑念をぶつけると、趙与ちょうよはその場に立ち止まったまま振り返ること無く、ああ、とひと言だけ答える。


「なぜ、あんなに早く救援に駆けつけることが出来たのですか? それに、砦が無人であることにいつ気づいたのですか?」

「お前たちと同じだ」


 趙与ちょうよは、ゆったりとした所作で振り返り、


「我々も、気象に詳しい【中山国ちゅうざんこく】の民から深い霧が発生するという情報を得て、朝方に奇襲をかけたのだよ。ところがそこは既にもぬけの殻だ。ああ、本陣が危うい。そう、直感して慌てて駆けつけた。それだけのことだ」


 そう言い残して趙与ちょうよは再び背中を向け、悠長な足取りで街中を去って行った。


 それだけのこと──


 彼は軽い口調でそう言い放ったが、戦場において本能的に直感が働き、それを迷い無く実行することの難しさを知る楽毅がくきは、趙与ちょうよという男の非凡さを改めて感じると共に、そんな男と死力を尽くして戦えたという充足感に包まれるのだった。

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