それにしても、と趙与はため息交じりにつぶやくと、
「楽毅はこうして迷いながらも自らの意思を示したというのに、うちの娘はいまだにコソコソと隠れてはいつまでもウジウジしておる」
背後の交差点辺りに目をやり、そこに聞かせるような大きな声で言った。
楽毅たちは、何のことだろう、と首を傾げる。
すると、のったりとした足取りでひとりの少女が角から姿を現し、目を伏せながら楽毅たちの方へと歩み寄る。
三つ編みに結わいた栗色の髪。鼻周りのそばかす。存在感あふれる大きな眼鏡。
「趙奢……」
楽毅は、複雑な気持ちでその少女の名をつぶやいた。
趙奢はそわそわとした所作で、視線をあちこちに泳がせていたが、意を決したように深々と頭を下げると、
「ゴメンなさいっス、楽毅!」
彼女にしては珍しいくらいの大きな声で謝意を示した。
どうしたの、と突然のことに楽毅は戸惑いを隠せない。
「楽毅のお父君がこの前の戦で亡くなられたと聞いたっス。たしか、東垣を守っていたとか。でも、東垣はジブンの造った攻城兵器によって落ちたんスよね……。ジブンが楽毅のお父君を殺したようなもんっス!」
最後には嗚咽と共に、懺悔の想いを吐露する。
── 趙奢も、思い悩んでいたんだ。
自分と同じように親友同士で争うことに心を痛め、楽峻の死を自らの罪のように感じているのだろう。
楽毅はそっと、小さいが職人のようにがっちりとした彼女の手を握り、
「『全力で戦おう』って、あの時臨淄でそう誓い合ったでしょう? わたしもアナタも、その通りにしただけ。何も悔いることなんて無いわ」
まるで母親が子を諭すような、穏やかな声で言った。
「でも、ジブンは楽毅の目標を潰したんスよ。『誰かが誰かの野心を食い潰す』っていう、あの時の澪さんの予言はこのことだったンすよ!」
しかし、趙奢は尚も泣きじゃくり、まるで駄々をこねるように言うのだった。
そんな彼女の姿に、楽毅は喟然として嘆息をもらした。
「趙奢はわたしのことを、ずいぶんと見下してくれるのね?」
「えっ?」
突然、涼やかな口調で放たれたその言葉に、趙奢は思わず顔を上げた。
「わたしの野心があれで潰えたと思っているのなら、思い違いも甚だしいわ。まあ、たしかに亡国の将というのはいろいろとバツが悪いけど。でもね、諦めたつもりなんて無いわよ。だってわたし」
楽毅は一度天に目をやってから、
「諦めの悪い女ですもの」
満面の笑みを浮かべて言う。
「楽毅……。うわあァァァァァァんッ!!」
趙奢は楽毅の胸に飛びこみ、赤子のように嗚咽する。楽毅はその小さな頭を優しくなでた。
「やれやれ、私はそろそろ退散するとしよう」
二人のやり取りを見守っていた趙与は、そう言って踵を返す。
「お待ちください!」
と、楽毅がその背中を呼び止める。
「深い霧が立ちこめたあの日、無人となったわたしたちの砦を落とし、武霊王の救援に真っ先に駆けつけたのはアナタですね?」
楽毅が以前から抱いていた疑念をぶつけると、趙与はその場に立ち止まったまま振り返ること無く、ああ、とひと言だけ答える。
「なぜ、あんなに早く救援に駆けつけることが出来たのですか? それに、砦が無人であることにいつ気づいたのですか?」
「お前たちと同じだ」
趙与は、ゆったりとした所作で振り返り、
「我々も、気象に詳しい【中山国】の民から深い霧が発生するという情報を得て、朝方に奇襲をかけたのだよ。ところがそこは既にもぬけの殻だ。ああ、本陣が危うい。そう、直感して慌てて駆けつけた。それだけのことだ」
そう言い残して趙与は再び背中を向け、悠長な足取りで街中を去って行った。
それだけのこと──
彼は軽い口調でそう言い放ったが、戦場において本能的に直感が働き、それを迷い無く実行することの難しさを知る楽毅は、趙与という男の非凡さを改めて感じると共に、そんな男と死力を尽くして戦えたという充足感に包まれるのだった。