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第3話 お前は趙に仕えてもらう

趙与ちょうよどの」


 老人の視線に気づいてそちらを見やった楽毅がくきは、そこに現れた男の姿に驚いた。


 真冬の停戦交渉の時にも会ったことがあるものの、つい最近まで知略の限りを尽くして戦った者同士が、こうして街中で──甲冑をまとわぬ平服姿で向かい合っていることに、お互いどことなく不思議な感覚を覚えるのだった。


「では楽毅がくき様。我々はこれで失礼いたします」

「もう帰られるのですか? せめてお食事だけでもご一緒にいかがですか?」

「とんでもございません。我々は楽毅がくき様のお手伝いが出来ただけで充分でございます」


 老人は趙与ちょうよを睨むように一瞥いちべつし、ひらりと袖口をひるがえして楽毅がくき拱手こうしゅを向け、他の者たちと共に去っていった。


「本当にありがとうございました」


 楽毅がくきたちはその背中が見えなくなるまで頭を下げ続けた。


邯鄲かんたんに着いて早々民の心を掴むとは、さすがだな、楽毅がくき


 趙与ちょうよがおもむろに口を開く。

 楽毅がくきは複雑な気分に苛まれ、言葉に窮したが、


趙与ちょうよどの。脚のお怪我はもう大丈夫なのですか?」


 牽制がてらそうたずねる。


「そんなもの、もうとっくに癒えておる」


 趙与ちょうよはかつて包帯を幾重にも巻いていた右足を二回ほど踏みこみ、何とも無いことを主張アピールした。


「それは良かったです。そのお怪我が原因で趙奢ちょうしゃが【せい】から帰国したと伺いましたから、こちらが思った以上にヒドイものだったのではと密かに心配しておりました」

「そんなことまで知っていたのか。何とも恥ずかしい話だ」


 趙与ちょうよは苦笑混じりに語った。


「私はあの娘を戦場に立たせたくなかった。だから、官僚になるよう薦めたのだが、あの娘は幼いころから戦に並々ならぬ興味を抱き、遂には私の反対を押しきって【せい】に留学してしまった。やはり、行かせるべきではなかったのだ。大した理由でもないのに学問を途中で投げ出し、感情のみに突き動かされて戦場へと赴いた。とても愚かなことだとは思わんか?」


 ですが、と楽毅がくきは控えめに切り返し、


「親を心配し、親を思っての趙奢ちょうしゃの行動はわたしにも理解出来ますし、同じ立場であったなら、きっとわたしも同じ行動を執ったと思います」


 と、恣意しいを述べた。


「ほう、あれだけ見事な戦をくり広げた者とは思えぬ、甘い言葉だな」

「果たしてそうでしょうか?」


 残念そうに吐き捨てる趙与ちょうよに、楽毅がくきは微笑を浮かべ、


断機だんきをもって戒めた孟母もうぼでさえ、親に会いたいという子の気持ちに何も感じなかったとは思えません。親を心配し、大事な学問を投げ出してまで駆けつけた娘の気持ちをうれしく思わぬ者などおりますまい」


 賢母の代表格である孟子もうしの母を引き合いに、趙与ちょうよの親心を揺さぶるかのように言った。


「それに、趙奢ちょうしゃの開発した兵器が無かったら、これほど早く【中山国ちゅうざんこく】が滅ぶことも無かったはずです。あれだけの堅固を誇った城が、いとも簡単に落とされてしまったのですから」


 趙与ちょうよは顔をしかめてひとつため息を吐き出し、たしかにな、と呟いてから、


「それにしても、母国が無くなったという割にはやけにサバサバしているように見えるな。愚昧ぐまいな王から解放されたからか? 大国に仕えることが出来るよろこびからか?」


 と問うた。

 楽毅がくきは少しうつむいてから、


「少なくともわたしは、最後の王となられた姫尚きしょう様に仕えている間は、この上ない幸せを感じておりました。この方になら命を投げ出しても惜しくは無い、と。ですが──」


 静かに語り、そこまで言いかけたところでかぶりを振った。


「いいえ、もしかしたらアナタの言う通り、姫尚きしょう様によって【中山国ちゅうざんこく】というおりの如く小国から解放され、内心ではよろこび勇んでいるのかもしれません」


 自嘲と共に語る楽毅がくきを、楽乗がくじょうたちは不安げに見守る。


おおとりがいよいよ天下に名を轟かす。その好機チャンスというワケか」

「ですが、武霊王ぶれいおうはきっとわたしを用いることは無いでしょう」


 やや興奮のこもった声で語る趙与ちょうよの言葉にはあえて答えず、突き放すように言う。


「いや、私が必ずや主上を説き伏せてみせる。だから楽毅がくきよ、お前は【ちょう】に仕えるのだ」


 しかし、逆に燃え上がったような熱い眼差しで、彼はそう力強く断言した。


「これからの【ちょう】は、お前のような若い才能が必要なのだ。先ほどの者たちに何を吹きこまれたのかは知らぬが、お前は【ちょう】に仕えてもらう」

趙与ちょうよどの。それはあまりにも自分勝手ではございませんか⁉」


 楽乗がくじょうがそう言って荒々しく息巻くが、


「自分勝手で大いに結構。それだけ私は楽毅がくきの才能を買っているのだからな」


 趙与ちょうよはこれを一蹴する。


 彼の言葉に、楽毅がくきの心も大いに揺れ動いた。

 これほど直情的に、これほど情熱的に口説かれることは武将冥利に尽きる、と彼女自身誇らしい気持ちでいっぱいであった。


 しかし──


 ──これが武霊王ぶれいおう自身の口から放たれた言葉であったなら、わたしは迷い無く【ちょう】に仕えていたでしょう。


 楽毅がくきは、かつて王に疎まれ続けた苦い過去を思い出し、君臣の関係がいかに肝要かんようであるかを痛いほど感じていた。


趙与ちょうよどのからそこまで請われては、お断り出来ません」


 楽毅がくきはしばらく考えた末に、吐息と共にそう告げた。

 この言葉に趙与ちょうよは顔をほころばせ、逆に楽乗がくじょうたちは驚きと共に顔を強張らせた。


「そうか。【ちょう】に仕えてくれるか」

「はい。ただし、武霊王ぶれいおう直々の要請か、もしくは王位継承権が上位におられる王族の方から直接に請われた場合のみお受けいたします」

「ふむ。……まあ、そこは私が何とか説き伏せよう」


 楽毅がくきからの条件に一瞬ためらいがちに口をつぐんだ趙与ちょうよだったが、とりあえず後先のことより彼女をここに引き留めておくのが大事だ、と感じ、最後には力強く言うのだった。

 それは同時に、楽毅がくきを求める気持ちの強さの表れとも言えるだろう。

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