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第2話 わたしはただの敗北者です

 楽毅がくきは、扉替わりにとって付けたようにしつらえられたボロボロの麻布をめくり、中へと入る。  

 窓とおぼしき壁をいただけの穴から陽光が射し込み、土や木材があちこちに散乱している部屋の様子がうかがえた。  

 障害物を跨いで先に進むと、別の部屋へと通じ、ぐるりと屋内を一周すると、部屋の数が全部で四つあることが判明した。


「部屋の数はちょうどですね。それでは、わたしたちが暮らせるように掃除と修繕を行いましょう!」  


 楽毅がくきは嬉しそうに両手の平を重ねると、弾むような口調で言った。


「えっ、今からですか?」  


 楽乗がくじょうの問いに、楽毅がくきは大きくうなずいた。


「せめて、小間使いの者が来るまで待ちませんか?」

「自分たちが住む家なのですから、なるべく自分たちの手でやりたいではありませんか」

「……わかりました。お姉さまがそうおっしゃるのなら」


 子供のように爛々らんらんと目を輝かせて迫る楽毅がくきに、楽乗がくじょうは抗うことが出来なかった。


「それでは力仕事をお任せください」


 楽乗がくじょうはひとりで太い木材を軽々と持ち上げると、それを肩に担いで外へと運び出して行った。  

 こうして、楽乗がくじょう楽間がくかんが力仕事を、楽毅がくきツェイが清掃を担当し、作業は着々と進んでいった。




 そして、一時間ほどが過ぎたころだった。


「もしや、【中山国ちゅうざんこく】の楽毅がくき様ではございませんか?」


 好好爺こうこうやといった風情をしたひとりの老人がやって来ると、家の前で休憩していた楽毅がくきたちに声をかける。

 楽毅がくきはすぐに立ち上がり、


「はい。楽毅がくきはわたしでございます」


 ゆうをもって老人に答えた。


「おお、噂通りの方をお見かけしたので、もしやと思ったのですが、やはりそうでしたか」


 彼女の正体を知ると、老人は顔をほころばせて満足げにうなずいた。


「わたしのことをご存知なのですか?」

「国中で噂になっておりますよ。【中山国ちゅうざんこく】に赤い髪をした美しい戦女神がいると」

「戦女神……ですか?」


 誇大な評価だ、と楽毅がくきは気恥ずかしさと同時に心苦しさを感じた。


「わたしはただの敗北者です。女神とは程遠い存在です」

「とんでもございません。楽毅がくき様は最後【中山国ちゅうざんこく】を見限らず、傲慢不遜ごうまんふそん武霊王ぶれいおうを相手に真っ向から立ち向かった英雄でございます」

「そのようなことを申されては──」


 自国の王に対する暴言を堂々と述べるこの老人を心配した楽毅がくきであったが、彼は全く意に介さず、


「よいのです。不毛な戦を繰り返し、我々民衆の苦しみを全くかえりみようとしない王を慕う者など、この辺りにはおりませんから」


 そう言ってのけるのだった。


「我々は、そんな暴君に辛酸をめさせた楽毅がくき様の噂、その一言一句に胸を踊らせておりました。こうして楽毅がくき様が【ちょう】においでになり、あまつさえ我々と同じ区画に居を構えられることは、これ以上無い幸運でございます。街の者にも手伝わせますので、お待ちくださいませ」

「そんな……悪いです。こちらが勝手に押しかけたのに、ご迷惑をかけさせるワケにはまいりません」


 しかし老人はそんな楽毅がくきに笑みで返すと、


「お気になさらずに。皆もきっとよろこびます」


 そう言って、もと来た道を戻って行った。


「まさか、敵国だった【ちょう】の民にまで慕われておられるとは。さすがです、お姉様」

「わたしも驚いております」


 しかし、それはこの国の危うさを象徴しているように楽毅がくきは思えた。


 国は王と民が共存して成り立つものであり、そのどちらかでも欠けてはならない。だが、この【ちょう】という国はすでに民の心は王から離れつつあり、このまま武霊王ぶれいおうがむやみやたらに戦をくり返せば、近い内に国政はたち行かなくなるだろう。


 そんなことを考えている内に、先ほどの老人が二十人ほどの街人を率いて再びやって来た。


楽毅がくき様、街の若い衆を連れて参りました。どうかお手伝いさせてくださいませ」


 老人がそう言って頭を下げると、街の者達もそれに習い頭を下げる。

 楽毅がくきはしばらく戸惑ったが、せっかくの申し出を無下には出来ず、


「ありがとうございます。それでは、お手伝いをお願い致します」


 深々と頭を下げて、それを受け入れた。

 街の者達は喜び、そしてよく働いた。みるみる内に屋内のがらくたは片付き、補修と模様替えが行われ、当初数日はかかると思っていた全ての作業がたったの三時間で終了した。


「これで何とか、戦女神さまのお住まいとして恥ずかしくないものになりました」

「微に入り細に入りお心づかいいただき、痛み入りまする」


 楽毅がくきたちは手伝いをしてくれた街の者たちに深々と頭を下げ、感謝の意を示した。

 実際、着の身着のままで邯鄲かんたんにやってきた彼女たちは生活に必要な物を何一つ持っておらず、哀れに思った街の者たちが余っていた調度品を分け与え、その結果、当面の生活に不自由しないだけの物品が揃ったのだった。


「感謝には及びません。ただ──」


 老人はそう言っておもむろに楽毅がくきの側に歩み寄り、


「どうか、武霊王ぶれいおうには仕えないでいただきたい」


 ポツリと、そう告げた。

 他の街の者たちも、訴えかけるような真剣な眼差しを彼女に向ける。


「我々は公子・趙何ちょうか様に忠誠を誓っております。趙何ちょうか様は疲弊しきった国の現状を憂え、我々民草の元までわざわざ参られ、慰めのお言葉をかけてくださいました。趙何ちょうか様こそが次の王に──」


 せつな、饒舌じょうぜつだった老人の口がピタリと止まる。

 楽毅がくきたちの背後から近づいてくるひとりの男の姿に気づいたのだ。

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