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第1話 こちらで我慢していただきたい

ちょう】の国都・邯鄲かんたん──


 “中華大陸一の雅”と称され、都人の優雅な歩き方を真似るために他国人が訪れるほどであったが、戦を好む武霊王ぶれいおうが統治する今では武人や武器商人の姿が多く目立つようになっていた。




 昨年の初秋にも訪れたことがあるその街中を、楽毅がくきたちは【ちょう】兵と共に歩いていた。


「そういえば、ツェイと初めて会ったのもここでしたわね。まだ一年も経ってないのに、何だか遠い昔のように懐かしく感じますわ」

「……本当に、そうですね」


 露店が多く立ち並ぶ中央通りの喧騒けんそうに目をやりながら、楽毅がくきと翠はその当時のことをふと思い返していた。


「戦に使うための鉄とを、ヤンどのに無理を言って格安の値で売っていただいたのでしたね」

「本当にあの時は驚きました。正直、ヤン様のお考えが理解出来ませんでした。でも、今ならその商売人の勘が正しかったのだと、ハッキリわかります」

「そうです。お姉様の奮闘振りは、きっと中華大陸中に響き渡るはずです。何せ、あの武霊王ぶれいおうを相手にこれだけ善戦したのですから」  


 楽乗がくじょうが力強く同調する。

 先導する兵士が、渋い顔で彼女たちを一瞥いちべつした。


「ですが、わたしは【中山国ちゅうざんこく】を護れませんでした……。誇れるようなものは何もありません」  


 楽毅がくきは儚げな笑みを浮かべて言った。  

 実際、彼女の胸に達成感は微塵も無く、ただ、心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような、そんな喪失感と虚無感だけが支配するのだった。


 そんな彼女の気持ちを何となく察した楽乗がくじょうたちは、これ以上何も言わなかった。


「それでは、正式な通達があるまではこちらをお使いください」  


 そう言って兵士たちに案内された場所は、宮殿よりかなり離れた一郭に佇む、一軒のみすぼらし家だった。


「こんなあばら家に住めと言うのか? せめて楽毅がくきお姉様だけでももう少しマシな邸宅に移ることはできないのか?」

「はい。ただいま空き家が不足しておりますゆえ、こちらで我慢していただきたい」  


 しかし、と言ってごねる楽乗がくじょうを制して、


「いいではありませんか。みなさんとご一緒出来るのですから、これ以上望むものはございません」  


 楽毅がくきは穏やかな笑みを浮かべて言った。


「姉上がそうおっしゃるのなら」  


 楽間がくかんが言うと、楽乗がくじょうツェイも同調してうなずいた。


「それでは、後ほど小間使いの者が参りますので、何かありましたらその者にお申しつけください」  


 案内役の兵士は事務的な口調で言うと、結局最後まで楽毅がくきたちを卑下したまま、ドカドカと荒々しい足取りでその場を去って行った。


「無礼なヤツめ」  


 その後ろ姿に向けて、楽乗がくじょうは憮然とした面持ちで言い放った。


「仕方ありません。つい数日前までは敵同士だったのですから」  


 なだめるように楽毅がくきは言った。


 しかし、これが武霊王ぶれいおう楽毅がくきたちに対する気持ちの表れであることは、そこにいる全員が感じていた。  

 以前に停戦交渉のために武霊王ぶれいおうと面会した時も、彼は楽毅がくきが女であるという理由だけで、男と同等の官職を与えることを嫌った。 その例からも、たとえ武霊王ぶれいおうにその才を認められたとしても、楽毅がくきに出世の見こみがあるかといえば、かなり厳しい状況であると言わざるを得ないだろう。


 それでも、楽毅がくきはこの待遇を甘んじて受け入れた。  

 これまで国の存続のみに腐心してきた彼女にとって、今のように何をすればいいのかわからない状況下で、とりあえず大切な仲間と穏やかな時を過ごすのはいいことなのかもしれない。そう感じて。

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