目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第10話 どうかお元気で

 【中山ちゅうざん】兵全員と惜別せきべつの握手を交わす姫尚きしょう。その最後の相手は楽毅がくきであった。


楽毅がくきよ。思えばお前には何から何まですべて世話になってばかりであったな」


 姫尚きしょうからの言葉を、楽毅がくきは目を潤ませながら静かに聞いている。


「お前のおかげで、私は母の故郷で住まうことが叶う。本当に感謝している」

「……微才の身にはもったいないお言葉でございます」


 恐縮する楽毅がくき。しかし、それでも彼女は【中山国ちゅうざんこく】を存続させられず、しまいには護るべき主君であるはずの姫尚きしょうが犠牲になる形で逆に自分たちが生かされているという事実に、いまだ拭いきれないわだかまりがあった。


 そして、彼女には、姫尚きしょう伝えなければならないことがあった。

 ひと呼吸置いてから、楽毅がくきはそれを切り出した。


姫尚きしょうどの……。以前アナタは、わたしのことをひとりの女性として好いている、とおっしゃってくださいました。わたしは……とてもうれしかったです。男の方からそのような言葉をいただいたのは、初めてでしたので……」

楽毅がくき。その件はもう──」


 返事は不要と言った手前、止めようとする姫尚きしょう楽毅がくきはそれを制するように小さくかぶりを振り、続きを語り出した。


「以前、姫尚きしょうどのに抱きしめていただいた時、わたしは今まで感じたことのないくらいの胸の高鳴りを覚えました。とても温かくて、とても切なくて、とても不思議な充足感を」


 ですが、と一拍置いてから、彼女は再び語り出した。


「それとは別に、わたしの胸の奥底には野心が燃えたぎっているのです。名を挙げたい……歴史の中にこの名を燦然さんぜんと輝がやかせたい! 今のわたしは、その思いにあらがえそうもありません。わたしは色恋よりも自分のやりたいことをえらんでしまうようなじゃじゃ馬なので」


 自嘲と共に、彼女なりの答えを伝える。


「そうか……。その方がお前らしいのかもしれないな」


 結果的にフラれた形となった姫尚きしょうであったが、それでも晴れやかな笑みを浮かべると楽毅がくきの肩にポンと手を置き、


大天おおぞらを思いのまま駆け上ってゆくお前の姿、期待しているぞ」


 それを別れの言葉とし、数名の【ちょう】兵と共に彼女たちとは違う方向へと歩んで行った。

 東の大国、【せい】へと続く道へ──


 ──姫尚きしょうどの……。どうかお元気で。


 楽毅がくきは去りゆく背中に向けて頭を下げ、彼の前途を祈り、それを惜別の言葉とした。


 もう二度と会えないのか。はたまた、どこかで再会できるのか。

 その答えは、運命という名の潮流の先にあるのかも知れない。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?