──早く、何とかしないと……敵が態勢を立て直してしまう。
楽毅は、地面に突き立てた剣を杖がわりにして何とか立ち上がる。しかし、先ほどの衝撃で全身──特に右腕に激痛が走り、思うように体が動かせない。
──悔しい……。わたしにもう少し力があれば……。
やはり、男の力には敵わないのか?
彼女の心は、そんな諦めに浸食されてゆく。
と、その刹那であった。
『……我が真名を呼べ』
まるで地の底からうなり上げるような凝った声が、楽毅に呼びかける。しかし、彼女の周囲にはそれらしき人物の影も形も無かった。その声はまるで彼女だけに聞こえている、いや、彼女の頭の中に直接語りかけてくるのだった。
『我が真名を呼べ』
誰のものかも分からないその声は、くり返し彼女に問うた。
「……誰? いったい誰なの⁉」
『我が真名は【カグヤ】。八紘がひとつ、【悠久の焔】を司るものなり。汝、【大いなる意思】に選ばれし者よ。汝の名と、我が真名を呼べ』
──【カグヤ】? ……【大いなる意思】?
聞き覚えの無い言葉と聞き覚えのある言葉を同時に受け、楽毅はますます困惑した。
『我は汝であり、汝は我である。汝の名と、我が真名を呼べ』
哲学的な言葉を投げかけ、正体不明の謎の声は彼女の頭から消え失せてゆく。
──なぜだろう。その名前、聞いたことの無いはずなのにどこか懐かしい気がする。それに……。
楽毅は知っていた。どうすれば力が得られるのかを。どう言えば、宝珠の力を解放できるのかを。
「わたしは楽毅。血の契約に基づき、わたしに力を与えて。【カグヤ】!」
意を決した楽毅は胸の前に下げた宝珠を強く握りしめ、声高に叫んだ。
その時、全身に炎が駆け巡るような熱い息吹きを感じた。
そして右手の甲には赤々とした輝きが放たれ、そこに紋章が刻みこまれる。よく見るとそれは、焔を形象化したような模様であることが分かった。
『【烈火弾】──』
刹那、再び頭の中であの声が──【カグヤ】の声が告げる。
楽毅は熱を帯びた右手を武霊王に向けて翳す。
すると、翳した手のひらの前に燃え盛る炎が球体となって出現し、
「【烈火弾】ッ‼︎」
自然と頭の中に浮かんだその言葉を詠唱する。
火球は武霊王に向けて勢いよく弾け飛ぶ。
「こしゃくなッ!」
武霊王は渦を剣にまとわせてそれを一閃する。
火球と渦は相殺され、消滅した。
楽毅は次に自らの剣に業火をまとわせ、今度は自分から果敢に斬りこんで行く。
「咒の力を受けつけぬクセに、己は咒の力を扱える。何とも恵まれた躰よのう」
妬ましいぞ、と言って剣を弾き、襲いくる炎を衝撃波で受け流す武霊王。
もはや自然の摂理を無視したような別次元の戦闘を繰り広げる二人を、周囲の者たちは思わず固唾を呑んで見守っていた。
──スゴい! これが宝珠の力……。アレクサンドロス大王が用い、欲した力。
それはまるで、自分が自分でなくなるような、そんな開放的な感覚であった。
これなら勝てる、と楽毅は思った。
「愉しいなァ、楽毅。これだから戦は止められぬ」
灼け落ちた剣を投げ捨ててもう一振りの剣を抜くと、武霊王は恍惚とした笑みを浮かべる。
「戦を愉しいなどと思える感性はありません。ここでアナタを討ち、その不快な笑みを消してみせます」
「ほう……。では貴様は、なぜ嗤っているのだ?」
「嗤っている……? わたしが……?」
思いも寄らぬ言葉に、楽毅は動揺を隠せなかった。
そんなはずはない。ないはずなのに。
「戦の最中で愉悦に浸るなど、あり得ません。戦争狂のアナタと一緒にしないでください!」
「はたしてそうかな? 強大な力を得た時、心にわずかばかりの優越感も生まれなかったと言い切れるのか?」
「それは……」
戸惑う楽毅に、武霊王は畳みかけるように続けた。
「貴様と俺は他者には無い力を手にした特別な存在。いわば、同じ穴のムジナだ。その宝珠を手にした者は血と闘争を求め、戦をせずにはいられぬ人間──否、獣なのだ」
「わたしは──」
違う、とは言えなかった。
たしかに彼女は力を欲し、その力を得て戦っている。血を見たいとまでは思わないが、自分がやっていることは結局、武霊王と同じ血にまみれた外道なのではないだろうか?
強大な力を振るう内にその力に魅了され、やがて彼が言うように自ら戦を引き起こし、それが原因で多くの血が流れることになるのではないだろうか?
そんな不安が、彼女の胸の奥で渦巻くのだった。
と、その時──
本陣の後方から、新たな喊声が迫り来る。
「楽毅お姉様、敵の援軍が来たようです!」
「まさか……早過ぎる!」
楽乗からの報に、楽毅は信じられないといった面持ちで立ち尽くした。
霧が明けてまだ間も無いというのに──敵本陣を急襲してまだ間も無いというのに、こんなにも早く救援部隊が到着するなど、彼女にとっては想定外の出来事であった。
──まさか、敵方にもこの霧をあらかじめ察知していた者がいたとでもいうの?
ここまで迅速な行動が取れるのだから、それだけでなく、【中山国】の地理に明るい者の協力を得たとしか考えられなかった。
「楽毅ッ!」
と、今度は【中山】兵が路を切り拓いて彼女たちの前に現れると、それを率いる姫尚が呼びかけた。
「退くぞ、楽毅。これ以上はもう持ち堪えられない!」
「姫尚どの……」
彼は、万が一に備えて山中に百人の兵と共に待機していたはずであった。もしもこの奇襲が失敗して楽毅たちが全滅したら、中山王である彼だけでも落ち延びられるように、と。
しかし、姫尚は逃げるどころか共倒れになるのを承知で楽毅たちの救出に駆けつけたのだ。
「……どうやら、愉しみはもう終わりのようだな」
武霊王は心無しか残念そうに苦笑すると、剣をおもむろに投げ捨て、踵を返す。
「くっ……」
それを追おうとした刹那、楽毅は突然全身に鉛でもまとったかのような倦怠感と疲労感に襲われ、ガクリとその場に膝をつく。それに呼応するかのように、右手の甲に燦々と輝いていた焔の紋もやがて、すぅ、と消え失せていった。
「お姉様、作戦は失敗です。退きましょう!」
彼女の肩を抱き上げ、楽乗が促す。
「失敗……?」
楽毅は信じられなかった。というより、信じたくなかった。すべてを賭けた決死の奇襲の失敗はすなわち、【中山国】の命運が尽きたことを意味するのだから。
「ダメです、楽乗さん。武霊王を追わないと」
「その状態ではムリです!」
「姉上、退いてください。このままでは姫尚様をお護りすることも困難になります!」
翠と楽間も彼女の体を支え、撤退を促す。
その言葉にハッと冷静さを取り戻した楽毅は、血路を拓くために必死に戦う若き王へと視線を向ける。
撤退は彼女にとって耐え難い苦渋の決断である。しかし、だからといって主君をないがしろにしていいはずがない。新たに国王となった姫尚はまだ妃を持たず、後継ぎもいない。国を救うために国の象徴たる王を喪失しては、本末転倒である。
それに、よく見れば楽乗も翠も楽間も満身創痍でこれ以上はとても戦えるような状態ではなかった。
「……すみませんでした。退却しましょう」
どちらにしても武霊王と剣を交えるだけの力も残っておらず、楽毅は楽乗の馬に相乗りする形でその場を後にした。
次々と迫り来る追っ手から逃れ、必死に退路を切り拓く仲間たちを虚ろな瞳で見つめながら、楽毅は眠るように気を失った。