そして奇襲決行当日──
【中山】軍三千の兵は、深夜に夜陰に乗じて抜け穴から密かに砦を脱した。
その際、無人の砦に旗を掲げたままにし、人に見立てた藁人形を複数体立て、いつもと変わらぬ状況を作り上げた。それが偽装であることに敵が気づくのは、おそらく霧が晴れてからになるだろう。
彼らは地理に明るい者を先頭に、篝火をひとつも焚くこと無く、ただ黙々と前進を続けた。
時が経つにつれ、どんどんと気温が下がってゆくのが身に染みて分かる。特にこの晩は、まるで冬に逆戻りしたかのような厳しい底冷えであった。
しかし、それは霧が発生するのには好条件であり、この奇襲が成功する確率が上がる、ということに他ならない。
──このような下策、孟嘗君はどう思うかしら?
移動の最中、楽毅はふと思った。
かつて臨淄で孟嘗君と別れた時、楽毅は【趙】との対戦に際して優良な手段として、戦わずして勝つ、と述べていた。外交を駆使し、【趙】が【中山国】に対して容易に手出しが出来ない状況を築き上げる、というのが当初の楽毅の目標であった。
しかし、現実はどうであろう。
結局、外交上の劣勢を覆すことは出来ずに領土は悉く削られ、今ではたったひとつの城すら持たぬ流浪の衆だ。
思えば、戦を避けられなかった時点ですでに雌雄が決していたのかもしれない。
友人たちには、自分の力がどこまで通用するのか知りたい、などと偉そうに豪語していたのに、実際はこのザマである。
──いけない。今は目の前にある困難に集中しないと。
楽毅は小さくかぶりを振り、夜空を見上げた。薄雲の絹に包まれ、おぞましいまでに赤みがかった満月が彼女たちを俯瞰している。今はその妖しく幽かな光だけを頼りに、ひたすら突き進んでゆく。
やがて夜が明け始めたころ──
良の先読み通り、凍えるような寒さと共に辺りに霧が立ちこめ始め、瞬く間に深くて濃い白色が世界を染め上げていった。
翠の偵察から、この近辺には敵部隊が複数配置してあるはずだ。目論み通り霧は敵の目から姿を晦まし、隠密に移動する【中山】軍に味方するのだった。
まるで雲海の中を漂っているような宛ての無い道行きを、三千の兵が息を殺しながら突き進む。
彼らの顔に明らかな疲労が滲み出す。しかし、少しの遅れが作戦の失敗を招くため、わずかな時間でも休む訳にもいかなかった。
やがて日が高くなって気温が上昇してゆくにつれ、糸が解れるように少しずつ霧が晴れてゆく。
そして遂に、兵舎の群れが──緑に染め上げられた【趙】の旗と総大将の所在を示す帥旗が眼下に明瞭と映る位置にまで達したのだった。
──遂に……ここまで来た。
第一の目標を達成し、わずかではあるが兵士たちの疲労感が薄れてゆく。
「皆、よくここまでがんばった」
大樹の側に立ち、姫尚が周囲に語りかける。
「しかし、これで終わりでは無い。我々の目的はただひとつ、武霊王を討ち果たすこと、ただそれだけだ」
彼を見つめる兵士たちの目に、再び生気が点る。
「三千対一万では無く、三千対一だ。相手は武霊王ただひとり。それ以外には目もくれるな」
姫尚はそう言って踵を返し、眼下にある【趙】軍を指差し、
「かかれッ!!」
高らかに叫んだ。
獣の咆哮の如く雄々しき声と、地鳴りの如く勇ましき行軍で、楽毅たち【中山】軍は一斉に敵陣のど真ん中へと雪崩れこんでいった。
──必ず武霊王を討つ!
先陣を切った楽毅は腰に携えた剣を抜き、状況がわからず右往左往する【趙】兵を斬り伏せてゆく。
しかし、手に力が入りすぎたのか、振り下ろした剣が楽毅の手からスルリと抜け落ちてしまう。
──しまった!
そう思うと同時に、目の前にいた【趙】兵が彼女に向けて剣を振り上げる。
死を覚悟したその時、その【趙】兵の体から袈裟斬りに血が吹き出し、膝から崩れ落ちた。
「楽毅お姉様。私の側から離れないでください!」
重厚な戟で敵兵を薙ぎ払いながら、楽乗が彼女の前に躍り出て呼びかける。
「そうです、楽毅姉さん。あまりムチャはなさらぬように」
風のような速さで両手の匕首を巧みに操りながら、翠も前へ出る。
「姉上、共に参りましょう!」
剣を構えた楽間が、笑みと共に彼女の側に寄り添う。
「みなさん……ありがとうございます!」
勇気を得た楽毅は、少しずつではあるが確実に前へと進んで行った。