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第4話 必ず武霊王を討つ

 そして奇襲決行当日──


 【中山ちゅうざん】軍三千の兵は、深夜に夜陰に乗じて抜け穴から密かに砦を脱した。

 その際、無人の砦に旗を掲げたままにし、人に見立てた藁人形を複数体立て、いつもと変わらぬ状況を作り上げた。それが偽装であることに敵が気づくのは、おそらく霧が晴れてからになるだろう。


 彼らは地理に明るい者を先頭に、篝火ぎりびをひとつも焚くこと無く、ただ黙々と前進を続けた。

 時が経つにつれ、どんどんと気温が下がってゆくのが身に染みて分かる。特にこの晩は、まるで冬に逆戻りしたかのような厳しい底冷えであった。

 しかし、それは霧が発生するのには好条件であり、この奇襲が成功する確率が上がる、ということに他ならない。


 ──このような下策、孟嘗君もうしょうくんはどう思うかしら?


 移動の最中、楽毅がくきはふと思った。


 かつて臨淄りんし孟嘗君もうしょうくんと別れた時、楽毅がくきは【ちょう】との対戦に際して優良な手段として、戦わずして勝つ、と述べていた。外交を駆使し、【ちょう】が【中山国ちゅうざんこく】に対して容易に手出しが出来ない状況を築き上げる、というのが当初の楽毅がくきの目標であった。


 しかし、現実はどうであろう。

 結局、外交上の劣勢をくつがえすことは出来ずに領土はことごとく削られ、今ではたったひとつの城すら持たぬ流浪の衆だ。


 思えば、戦を避けられなかった時点ですでに雌雄が決していたのかもしれない。

 友人たちには、自分の力がどこまで通用するのか知りたい、などと偉そうに豪語していたのに、実際はこのザマである。


 ──いけない。今は目の前にある困難に集中しないと。


 楽毅がくきは小さくかぶりを振り、夜空を見上げた。薄雲のヴェールに包まれ、おぞましいまでに赤みがかった満月が彼女たちを俯瞰ふかんしている。今はその妖しくかすかな光だけを頼りに、ひたすら突き進んでゆく。



 やがて夜が明け始めたころ──


 りょうの先読み通り、凍えるような寒さと共に辺りに霧が立ちこめ始め、瞬く間に深くて濃い白色が世界を染め上げていった。


 ツェイの偵察から、この近辺には敵部隊が複数配置してあるはずだ。目論もくろみ通り霧は敵の目から姿をくらまし、隠密に移動する【中山ちゅうざん】軍に味方するのだった。


 まるで雲海の中を漂っているような宛ての無い道行きを、三千の兵が息を殺しながら突き進む。

 彼らの顔に明らかな疲労がにじみ出す。しかし、少しの遅れが作戦の失敗を招くため、わずかな時間でも休む訳にもいかなかった。



 やがて日が高くなって気温が上昇してゆくにつれ、糸がほぐれるように少しずつ霧が晴れてゆく。

 そして遂に、兵舎の群れが──緑に染め上げられた【ちょう】の旗と総大将の所在を示す帥旗すいきが眼下に明瞭ハッキリと映る位置にまで達したのだった。


 ──遂に……ここまで来た。


 第一の目標を達成し、わずかではあるが兵士たちの疲労感が薄れてゆく。


「皆、よくここまでがんばった」


 大樹の側に立ち、姫尚きしょうが周囲に語りかける。


「しかし、これで終わりでは無い。我々の目的はただひとつ、武霊王ぶれいおうを討ち果たすこと、ただそれだけだ」


 彼を見つめる兵士たちの目に、再び生気がともる。


「三千対一万では無く、三千対一だ。相手は武霊王ぶれいおうただひとり。それ以外には目もくれるな」


 姫尚きしょうはそう言ってきびすを返し、眼下にある【ちょう】軍を指差し、


「かかれッ!!」


 高らかに叫んだ。

 獣の咆哮のごとく雄々しき声と、地鳴りのごとく勇ましき行軍で、楽毅がくきたち【中山ちゅうざん】軍は一斉に敵陣のど真ん中へと雪崩なだれこんでいった。


 ──必ず武霊王ぶれいおうを討つ!


 先陣を切った楽毅がくきは腰にたずさえた剣を抜き、状況がわからず右往左往する【ちょう】兵を斬り伏せてゆく。

 しかし、手に力が入りすぎたのか、振り下ろした剣が楽毅がくきの手からスルリと抜け落ちてしまう。


 ──しまった!


 そう思うと同時に、目の前にいた【ちょう】兵が彼女に向けて剣を振り上げる。

 死を覚悟したその時、その【ちょう】兵の体から袈裟斬りに血が吹き出し、膝から崩れ落ちた。


楽毅がくきお姉様。私の側から離れないでください!」


 重厚なげきで敵兵を薙ぎ払いながら、楽乗がくじょうが彼女の前に躍り出て呼びかける。


「そうです、楽毅がくき姉さん。あまりムチャはなさらぬように」


 風のような速さで両手の匕首ナイフを巧みに操りながら、ツェイも前へ出る。


「姉上、共に参りましょう!」


 剣を構えた楽間がくかんが、笑みと共に彼女の側に寄り添う。


「みなさん……ありがとうございます!」


 勇気を得た楽毅がくきは、少しずつではあるが確実に前へと進んで行った。

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