その時、またも兵士がやって来て、
「申し上げます。【趙】より使者が参りました!」
楽毅たちに告げる。
ほど無くして【趙】軍の統一色である緑色に染められた甲冑に身を包み、無骨な槌を携えたひとりの兵士が連れられて来る。それは、かつて楽毅たちが武霊王の元に使者として訪れた時に、彼女たちを案内した少女であった。
「アナタはたしか……廉頗さん?」
「お久し振りです、楽毅さん。アタシのこと、覚えていてくださってうれしいですぅ」
少女は、あの時と同じ屈託のない笑顔で言った。
「本日は、主上のお言葉を伝えに参りました」
「私が太子の──いや、【中山】王の姫尚である。聞かせてもらおうか」
この時、姫尚は初めて自らを【中山】王を称した。
領土の三分の二以上をも失った【中山国】は、もはや“国”と呼べるほどの勢威はなく、他の国の王が聞いたらきっと嘲笑したに違いない。
しかし、姫尚はあえて、【中山国】の王であることに拘った。以前は、王という称号に胡座を欠いて礼節を軽んじていた先王を諌めていたが、今は王として毅然と生き、王に見合った威信を取り戻すのだ、と。
「はい。まず主上は、この度の東垣と霊寿における禍殃に甚だ心を傷めておられ、お悔やみ仰せられました」
「禍殃? お悔やみ? 武霊王はそう申していたか……」
廉頗から告げられたその言葉に、姫尚はわずかに眉を顰めた。
「仁義に悖る外交で貶め、力ずくで他国の領土を掠め取る盗人がそれを口にするとは、とんだお笑い草だな」
「……主上はこうも仰せられました」
姫尚の言葉に何の反論もせず、廉頗は続けて述べた。
「『これは戦であり、戦に正義も卑怯も存在しない。あるのは勝者と敗者のみ。想定外の被害者が出たのは悼むべきことであるが、勝敗は兵家の常である』……とのことです」
「むぅ……」
姫尚は何も返せなかった。
武霊王の言う通り、東垣と霊寿に起きた悲劇は傷ましい出来事だが、それが【趙】軍の所業によるもので無いことは先ほどの司馬熹との会話からも明らかである。
ならば、落城を防げなかったのは己の力量不足に他ならない。武霊王を恨むのは筋違いであり、この乱世において相手の策謀を否定するのは無様という以外のなにものでも無いのだ。
──武霊王の方が一枚も二枚も役者が上か……。
キレイ事ばかりでは乱世を治めるどころか、たったひとつの勝利すらも得られない。そのことを痛感した姫尚は、
「すまない。前言撤回させてほしい」
廉頗に頭を下げ、謝意を示した。
「あ、いえ、その……こちらこそ、生意気言って何かすみませんでしたぁ」
思わぬ反応に戸惑った廉頗はどうしてよいか分からず、とりあえず自分もペコリと頭を下げてみた。
「それで、ここからが本題なのですが、『民間人の多大なる犠牲を悼み、【趙】は黙祷を捧げると共にこれより十日間を休戦期間とする』……主上はそう提案されました」
「休戦?」
楽毅たちは驚いた。
要所である東垣も霊寿も陥落した今、武霊王にとっては【中山】軍を一気に壊滅に追いこむ好機であるはずだ。にも関わらずわざわざ相手に猶予を与えたのは、真に【中山】の民を追悼する意があるのか、はたまた余裕の表れなのか?
──どちらにせよ、我々にとってはありがたい話だ。
姫尚は武霊王という男の器の大きさを痛感し、それを受け入れた上で、
「武霊王のお心づかい、感謝する。十日後の再戦を楽しみにしている、と伝えてほしい」
改めて強大なる敵への決着の意を示すのだった。
「かしこまりました。十日後、アタシも楽しみにしておりますぅ」
ペコリと一礼し、廉頗は踵を返して歩き出す。
しかし、すぐに立ち止まって振り返ると、
「ゼッタイに負けませんよ」
自信を滲ませた笑みを浮かべてそう言うと、再び歩みだした。
──わたしも負けない。趙奢……たとえアナタが相手だとしても。
去りゆく少女の背中に親友の面影を重ねながら、楽毅は決戦への覚悟を新たにするのだった。