「申し上げます。民家の瓦礫の下から生存者を発見しましたので、連れて参りました!」
その時、兵士がひとりの女性を伴い、そう告げた。
兵士の後ろに立つその人物に見覚えがあった楽毅は、
「英おばさん⁉︎」
驚きをもってその名を呼んだ。
それは、昔からの顔なじみである肉まん売りの女性だった。
「ああ、楽毅ちゃんかい……。無事でよかった……」
所々流血し、やや憔悴しているが、彼女はか細い笑みで答えた。
「おばさんこそ、ご無事で何よりです」
「そうなのよ~。昨日の晩、突然街中が炎上してね。慌てて逃げようとしたらさぁ、ちょうど崩れてきた瓦礫に押し潰されちゃったのよ~」
知り合いの顔を見て安心したのか、彼女はいつもどおりの饒舌さを取り戻す。
「そうでしたか。それで、昨晩のことなのですが、何があったのかもう少し詳しく教えてはいただけないでしょうか?」
「ええ、わかったわ。昨晩はたしか……落城するってんで周囲が異様に騒がしくてね。外に出てみたら、家は燃えていて、みんな倒れていて……」
「誰か怪しい者は見かけませんでしたか?」
「怪しい人かい? ……ああ、そうそう、白装束の人だよ。白装束の人たちが──」
不意にある人物を見やった彼女は、その顔を見るなり途端に凍りついたように体が硬直してしまう。
「どうしたのですか、英おばさん? 白装束の人たちがどうかしたのですか?」
「そ、そうだよ、この人だよ。あの時、この人が白装束の人たちを指揮して……。街に火をつけて、街の人たちを……殺して」
おびえた瞳で、わなわなと震える指で、彼女は白髪の宰相を──司馬熹を指し示した。
その場にいた全員が、驚きをもってその老人へと視線を向ける。
「……と、突然何を……。まさか、太子はこんな女の戯言を信じるおつもりですか⁉」
司馬熹は狼狽ぎみに訴える。その際も、両手に抱えた袋はがっちりと離さない。
「……宰相よ。私はお前を信じたい。しかし、どうにも不審な点がある」
「わ、私のいったいどこが怪しいと言うのですか?」
「その服……無数の血痕が付着しているが、お前自身がケガしているようには見えない。ならば、その血はいったい誰のものだ?」
「これは、その……身を挺して私を護り、死んでいった兵士たちの血です。きっと、その時に付着したのでしょう。ああ、尊い犠牲でした……」
司馬熹は天を仰ぎ、芝居がかった体裁を交えてそう主張する。
「……そうか。では、先ほどから大事そうに抱えているその袋。中は何が入っているのだ?」
「こ、これは……」
姫尚の問いに司馬熹は途端に挙措を失い、深い皺が無数に刻まれた額に大量の汗を滲ませる。
「どうした? なぜ見せられないのだ?」
「うう……くそッ!」
言葉に窮した司馬熹は、突然その場から駆け出す。
「逃がさん!」
すぐさま楽乗が手にしていた戟を握り直し、柄の方を前にして彼の足元目がけて一閃すると、
「ぎゃんッ‼」
柄の先がちょうど足首を刈るように捉え、司馬熹は足をもつらせて翻筋斗を打つ。その拍子に大事そうに抱えていた袋が手から離れ、中身が地面にぶちまけられた。
「こ、これは⁉」
その場にいた誰もが驚きの声を発した。そこには、目も眩むような金銀・宝珠と、美麗な色彩に彩られた着物と反物がたくさん転がっていたのだ。
司馬熹が慌ててそれらを拾おうと手を伸ばすと、楽乗は彼の眼前の地面に戟を突き刺してそれを制する。
「……宰相よ、これは、宮中の財宝ではないのか? なぜ、お前が持っていた?」
「ひいぃぃぃぃッ‼」
姫尚が冷眼をもって見下ろすと、司馬熹は無様な悲鳴を上げる。
「答えよ、宰相。本当にお前が父上や母上を殺したのか? 邑に火を放ったのか? ……無辜の民を殺したのか⁉」
「……くく……クカカカカカカカカッ‼︎」
姫尚の詰問にしばらく沈黙していた司馬熹であったが、突然肩を小刻みに揺らし出したかと思うと、まるで気が違えたかのように嗤い出す。
「貴様、何がおかしいッ⁉」
楽乗が怒りと共に彼の首元に戟を向けるが、司馬熹はまったく意に介さず、
「ああ、そうですよ。私が霊寿をメチャクチャにしてやったのですよ。【墨家】の連中を使って邑を燃やし、愚民共を滅してやったのですよ。カカカカカカカカカカカカッ‼」
急に立ち上がると、まるで開き直ったように周囲を煽るのだった。
突然の豹変を目の当たりにし、楽毅たちは唖然とする。
「そう、【墨家】を招き入れるように王陛下に進言したのも私ですよ。何を隠そう、この私も【墨家】の一員なのですよね~~ェ」
「アナタが……【墨家】? それでは、東垣が落城した際に父を──楽峻を殺させたのも……?」
「そ~う、わ・た・しで~~~~~すッ!」
人を食った口調で答える司馬熹に、楽毅は怒りを通り越して呆然としてしまう。
「……なぜ、このような非道を……」
「なぜって~ぇ? 決まっているでしょおぉぉぉぉが。こうして城や邑を徹底的に破壊すれば、【趙】軍の悪名が高まり、悪名が高まれば、他の国々は【趙】に対し徹底抗戦する。そうなれば我々【墨家】の需要は高まり、勢力が拡大してゆく。そして……戦はより混迷してゆくのですよぉぉぉぉぉ! 美しい戦火が、もっともぉぉぉぉっと広がるではありませんかぁぁぁぁぁ‼」
自分に酔いしれているような恍惚とした表情を浮かべ、司馬熹は演述した。
「そんな……そんなことのために、アナタは……」
「まあ、東垣の時は宝珠を手に入れるためでもあったのですがね~ぇ」
「……宝珠⁉」
その言葉に、今現在それを所有している楽毅の体がピクリと揺らぐ。
「楽峻のヤロウが隠し持っていたのを、最近知ったんですよぉ。だから、東垣が落城した騒ぎに乗じて強奪しようとしたのですが、まさか逃げ延びて、宝珠があなたの手に渡っていたとは思いませんでしたよ」
──それでは、わたしに凶手を差し向けたのも……。
それもこの男の差し金だと、楽毅は確信した。
「……では、貴様が王陛下やそのご家族を弑逆したのか……?」
「ええ、そうです。特別に、この私が直接手にかけてやったのですよォ」
楽乗の問いに、司馬熹は口の端を吊り上げて答えた。
「ホントに、最後まで愚かな男でしたよね~~~ぇ。私に踊らされ、自ら国を滅ぼしているとも気づかずに、死の直前まで私のことを信じきっていましたよ。私が剣で胸を一突きしたら、なぜだ、ってね。ホントに、あの時のマヌケな面は傑作でしたよ。カカカカカカカカカカカカッ‼」
天をあおぎ、司馬熹は全身を揺らして哄笑する。
と、その刹那だった。
じっと黙して聞いていた姫尚が不意に右拳を振り下ろすと、それは司馬熹の左頬をえぐるように捉えた。
「ぐぼあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ‼」
司馬熹の体は大きくのけ反りながら吹っ飛び、地面に這いつくばった。その口の端からは血が滴り、歯も何本か欠けていた。
「な、何を……ひいぃぃぃぃぃぃぃぃッ‼」
姫尚の無機質な冷眼を向けられた司馬熹は小動物の様に怯え、そのままの姿勢で後ずさる。
「楽毅お姉様。太子。こやつを……いかがなさいますか?」
楽乗が再び戟を構え、鋒を司馬熹に向けながら問う。
「わたしは……」
楽毅は考えた。
たしかにこの男は愛すべき家族である楽峻を死へと至らしめ、【中山国】を攪乱した黒幕だ。しかし、だからと言ってここでこの男を斬った所で事態が好転する訳でもない。
楽峻が彼女に託した願い。それは、紅い宝珠を護ることと、この戦乱の世を終わらせること。仇討ちではないのだ。
「今のこの男の姿を見ていたら、憎いだとか、許せないだとか、そんな風に考える自分が何だかバカらしくなってきました。ですので、処遇は太子にお任せいたします」
何かを吹っ切ったような、穏やかな笑みを浮かべ、楽毅は答えた。
そうか、とひとつうなずいてから姫尚は、
「私も同じだ。一発ブン殴ったら、何だかスッキリした」
そう言って呵々と笑い、姫尚は向き直ると、
「……司馬熹よ。長年の功績に免じて見逃してやる。そこの金銀・宝珠は餞別にくれてやるから持ってゆくがよい。ただし、着物と反物は私の母の形見……。それだけは置いてゆけ」
地の底から震わすような低い声で告げた。
「は、はひぃぃぃぃぃぃぃ‼」
得も言われぬ威圧感に、司馬熹はただうなずき、言われた通り着物と反物以外の物を掻き集め、それを袋に収めて抱きかかえると一目散にどこかへと走り去って行った。
「……本当によろしかったのですか?」
楽毅の問いに、姫尚は小さくうなずき、
「私には、これだけで充分だ」
地面に転がった母の形見を拾い上げた。
「……葬儀を執り行おう。父上たちと楽峻。そして、犠牲となったすべての人々の……」
姫尚が静かな声で言うと、楽毅たちはコクリとうなずいた。