それがもう完全に動かないことを確認すると、
「お姉様、おケガはございませんか?」
楽乗はすぐさま楽毅の元に駆け寄り、楽間と共に肩を貸して立ち上がらせる。
「あ、ありがとうございます……」
まだ放心状態の楽毅は、おぼつかない口調で礼を述べた。
「ご無事でなりよりです。それにしても……なぜ、【墨家】の者がお姉様のお命を狙ったのでしょうね?」
それは、と言って翠が楽乗の問いに答えた。
「この者は紅い宝珠を奪うために……楽毅姉さんのお命を狙ったのでしょう」
「なぜ、そう思う? お前、本当は何か知って──」
問い詰めようと一歩前に踏み出す楽乗を制して、楽毅が真剣な眼差しで翠を見据える。
「先ほどこの男は、わたしを護る為に戦うアナタに対して、『どういうつもりだ』、と問うていましたね? 翠、アナタはこの男と知り合い……いいえ、この男の仲間──【墨家】なのではありませんか?」
楽毅のこの言葉に楽間は小さく驚きの声を上げ、楽乗はわずかに眉を顰めた。
「……そうですね。こうなった以上、すべてを話さなければなりませんね」
ひとつ呼吸を入れ、そこにいる三人を一度見回してから、翠は静かに語り出した
「……私には身寄りが無く、両親やその他過去に関する記憶が無いことは以前お話しましたが、楊様に拾われる以前の私は──記憶を喪失して中華大陸で倒れていた私は、【墨家】の者たちに拾われ育てられていたのです」
「そんな……翠さんが【墨家】に?」
信じられない、とばかりにかぶりを振る楽間。
翠は一度目を伏せてから、更に続けた。
「……【墨家】としての生活は、来る日も来る日も凶手としての訓練の日々でした。そして、彼らのやることといえば己の教義の正当性を拡めるためにわざと戦争を煽ったり、戦では敵の残虐性を主張するために何の罪も無い一般人に手をかけたり……本当に最悪な集団でした。しかし、私も【墨家】に拾われた身。いずれはそんな最悪な連中と同じことをしなければならない……。ところが三年前のある日、拠点の変更のために山中を集団で移動していた時、私は不覚にも崖から足を滑らせ、滑落してしまったのです」
フッ、と自嘲とも取れる笑みを漏らす翠。
三人はただ黙って聞いていた。
「次に目が覚めた時、そこは楊商会の宿舎でした。私は、河原で倒れていた所を運良く楊様に救われたのです。楊様をはじめ、そこの人たちは見ず知らずの私にとても優しくしてくださいました。好きなだけここにいてよい、とも。私はうれしかった……。初めて人間らしい扱いを受け、人間として真っ当に生きられる、と。しかし──」
翠は顔を顰めた。
「そんな私の前にヤツらが──【墨家】の連中がまたしても現れたのです。そしてヤツらはこう言いました。『商人としてそのまま楊商会に留まり、その情報力を活かしてアレクサンドロスの血族とそれが持つ宝珠を探し出せ』、と」
「そしてアナタは……わたしたちの元へやって来た」
楽毅の言葉に、コクリとうなずく。
「紅毛碧眼の娘が臨淄にいる、という噂は二年くらい前から商人の間で広まっておりました。当然、その噂は【墨家】の耳にも届いていたことでしょう。わたしも、楊商会が臨淄に滞在した折には噂の娘を──楽毅姉さんを監視していたのです」
「わたし、監視されてるなんて全然気がつきませんでした……」
「当然です。簡単に気づかれてしまっては凶手は務まりませんから」
翠はかすかに笑った。
「その時見かけたアナタはとても無気力で、いつも天ばかり見上げておりましたね」
やだ、と楽毅は面映ゆさを感じて思わず顔を手で覆う。
「ああ、この人は私と同じなんだ。どこにも行けない――どこへ行けばわからないのにただ漠然と広い世界に憧れるだけの雛鳥なんだ、と。私は勝手にそう思いこんでおりました。だからあの時……邯鄲でアナタを再び見かけた時、まるで別人のように闊達とした姿に驚きました。人は短期間でこうも変われるのか、と。私でも変われるのか、と。私はそれを期待してアナタに随行したのです。そして、もしもアナタがアレクサンドロスの血族であれば……アナタを──」
ひとつ大きく息を吸いこみ、
「アナタを護りたいと」
翠はぎこちない笑顔でそう言った。
「信じてはもらえないでしょうが、私は【墨家】と完全に手を切る決意をしました。そしてこの度の戦いでヤツらがどういう行動をし、どこから楽毅姉さんに近づいて来るのか見極めるために一旦アナタの側を離れ、外部から監視しておりました。ですが……最初に狙われてしまったのはお父君──楽峻様でした。アレクサンドロスの遺産である宝珠──それを楽峻様が持っているという事実をヤツらがを突き止めたのを、私は霊寿で耳にしました。だから私はすぐに東垣に向かったのです。そして、そこで私が見たのは……落城の混乱に紛れて一般市民を虐殺する【墨家】と、それを止めようと必死で戦い、背中を斬られた楽峻様でした。そして私は、大ケガを負った楽峻さまを何とか助け出し、昔陽までお運びしたのです」
「それでは、父や邑の人たちを手にかけたのは……【趙】軍ではなく【墨家】だったのですね?」
「はい……」
「何ということ……」
思わぬ事実に、愕然とする楽毅。
『楽毅よ。【墨家】の者に気を許すな』
彼女は思い出した。以前、孟嘗君が彼女に伝えていた警告を。
楽毅は決して、それを失念していた訳では無かった。ただ、国家存亡の危機を前にして、意識が【趙】軍に向きすぎていただけなのだ。
翠は深々と頭を下げ、
「私がもう少し早く駆けられたなら、楽峻様をお救い出来たのに……。申し訳ございませんでした」
楽毅に謝意を示すのだった。
「翠……」
しばらくの間呆然としていた楽毅だったが、彼女のか細い肩がわずかに震えているのに気づいた。
──このコも、父の死を心から悲しんでくれているんだ。
楽毅は翠の肩にそっと手を置き、
「アナタはこれまで、わたしたちのためによく尽くしてくれた。そして、今回も父やわたしを助けるために全力で戦ってくれた……。何も謝ることなんて無い。アナタが謝ることなんて、何も……」
感謝の意を伝えた。
「ですが、私は楽峻様を──」
「父のことは確かに悔しいです。【墨家】を憎む気持ちもあります。ですが、私は憎しみに人生を囚われるつもりはありません。父もきっと、それを望まないはずですから……。ですから、アナタもしがらみに囚われずに自由に生きてほしい。だけど、ひとつだけ……もう黙って出て行かないでください。辛いことがあれば、いつでもわたしを──わたしたちを頼ってください。だって、わたしたちは……家族でしょ?」
「楽毅……ねえ……さん」
楽毅の言葉に、翠の目から涙がこぼれ落ちた。それは、普段感情をあらわにしない彼女が、楽毅たちの前で見せた初めての涙だった。
「私はまだ、お前のことを完全に信用した訳ではない。だが、先ほどお姉様を助けてくれた。だから私は、その……少しはお前を信じようと思う」
後半、しどろもどろな口調になりながら、楽乗が言う。
「僕だって、今は頼り無いと思いますけどいつか必ず、翠さんを護れるくらい強くなってみせます。だから……それまで僕を見守っていてほしいです」
一歩進み出て、男として精一杯の主張をする楽間。
「楽乗……。楽間……。楽毅姉さん……。ありがとうございます……」
堰が決壊したように、翠の頬を涙が止めど無く滴る。
そして四人はお互いの肩を寄せ合って泣いた。絆をたしかめ合うように。