夜の帳が降りて、宿舎の中にも灯火が焚かれる。
仄暗い部屋の中で、楽毅はいまだに父の亡骸を前に、椅子に腰かけて背中を丸めていた。
父の死を受け入れなければならない。
迫りくる【趙】軍と戦わなければならない。
姫尚の求愛に対し、何らかの返事をしなければならない。
しかし、今の楽毅は何も考えられなかった。頭が思考することを拒んでいるのだ。
──父上……。
楽毅は、自分の手の中にある紅い宝珠を見つめた。父から託された、不思議な力を持つという宝珠。かつてアレクサンドロス大王が所有し、その血族のみが力を解放出来るという。
しかし、これを持っていたがために楽毅の母は、宝珠を我が物にせんと欲するアレクサンドロス大王の遺臣たちに狙われ、楽毅達の前から姿を消さなけれげならかった。大切な家族に危害が及ばぬように。
そして、この宝珠を所持していることが知れれば、楽毅も当然命を狙われるのだ。
手の上にある小さな玉が、とてつも無く重いものに感じられた。
と、その刹那だった。
宝珠が一瞬だけ閃光のような白い光を放ち、楽毅の網膜を刺激する。
──何⁉
ふと上を見上げると、天井裏から白刃を突き立てながら彼女目がけて降りてくる白いものが、その視界に入った。
「楽毅姉さん!」
次の刹那、何者かが部屋の中に駆けこみ、その白いものに飛びかかった。
その拍子に楽毅はバランスを崩し、床に倒れこむ。
彼女のすぐ側で二本の白刃が煌めき、甲高い摩擦音が部屋に響く。
顔を上げると、彼女を庇うように立つ翠の小さな背中と、匕首を翳してそれと対峙している白装束の者がひとり、視界に入った。よく見ると、その白装束の袖には太極図が大きく描かれていた。
「翠⁉」
「……姉さん、すぐに逃げてください」
振り返ることなくそう告げると、翠は踵を踏みこみ、白装束の者に飛びかかる。
薄暗がりの中、尋常ならざる速さで二人は丁々発止と切り結ぶ。
──何て速さなの。
目にも止まらぬ攻防の連続に、思わず感嘆が漏れる。
翠が戦闘において高い能力を有していることは承知していたが、これほどまでとは。
相手の男は──顔のほとんどが白い頭巾に覆われていて性別も定かではないが、凶手の類いなのだろう。流れるような剣さばきを見せているが、それでも翠がくり出す高速の白刃を受けるのが精いっぱいで、少しずつ圧されていた。
「貴様、俺に刃を向けるとはどういうつもりだ?」
白装束の者が怨嗟の声を翠に向ける。が、彼女は何も答えない。
──どういうこと? 二人は知り合い?
楽毅はますます混乱し、かぶりを振る。
「くぅ……」
薄皮を剥がすように、白い衣が徐々に削られてゆく。
「そこっ!」
相手が微妙にバランスを崩した隙を突き、翠は渾身の一撃を打ちこむ。
白頭巾が真っ二つに裂け、凶手の顔があらわになる。
「おのれ……」
それは四十代くらいの、いかつい顔の男だった。彼は右胸の辺りに手を当てながら、恨めしそうに翠を睨めつける。よく見ると、そこからじわりと血が滲み出しているのが分かった。
男は足を強く踏みこんで跳躍し、箪笥の上に飛び乗る。そして再び跳躍して、元来た天井裏への逃走を試みる。
「逃がすかッ‼」
その時、楽乗が楽間と共に疾風の如く速さで駆けこんで来ると、彼女は手にしていた戟を男目がけて斬りつけた。
「ぐあぁぁぁぁぁッッッ‼」
天井にかけた左腕がスパッと斬り落とされ、男は苦悶の声を上げて、切断された腕と共に床に落下する。
逃がさぬよう、翠と楽乗が男を挟みこむ。男は傷口を押さえながら、荒々しい呼吸を繰り返す。
楽間は、男がもう一度姉に襲いかかる可能性を考え、彼女の側へ寄ってその肩を支える。
「白装束に太極図。貴様は【墨家】の者だな? なぜ、楽毅お姉様を狙った⁉︎」
楽乗は男の首元に刃先をあてがい、問うた。
しかし、男は肩を小刻みに揺らし、彼女を嘲笑う。
「貴様、何がおかしい⁉」
「ああ、おかしいぜ。俺を【墨家】と知って、そんなことを聞くのだからな」
「何だと⁉」
「【墨家】の敗北は即ち、死! 敵に情報を売るなど、ありえぬッ‼」
男はそう叫ぶと楽乗の戟に自らの喉元を押し当て、そして首を横に引いた。
血飛沫が勢いよく舞い上がり、やがて白装束の男はその場に崩れ落ちた。
「こいつ、自分で喉を……」
白い衣を紅く染め上げて横たわる男を、楽乗は畏怖をもって見下ろした。