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第9話 どういうつもりだ?

 夜のとばりが降りて、宿舎の中にも灯火が焚かれる。

 仄暗ほのぐらい部屋の中で、楽毅がくきはいまだに父の亡骸を前に、椅子に腰かけて背中を丸めていた。


 父の死を受け入れなければならない。

 迫りくる【ちょう】軍と戦わなければならない。

 姫尚きしょうの求愛に対し、何らかの返事をしなければならない。

 しかし、今の楽毅がくきは何も考えられなかった。頭が思考することを拒んでいるのだ。


 ──父上……。


 楽毅がくきは、自分の手の中にある紅い宝珠を見つめた。父から託された、不思議な力を持つという宝珠。かつてアレクサンドロス大王が所有し、その血族のみが力を解放出来るという。

 しかし、これを持っていたがために楽毅がくきの母は、宝珠を我が物にせんと欲するアレクサンドロス大王の遺臣たちに狙われ、楽毅がくき達の前から姿を消さなけれげならかった。大切な家族に危害が及ばぬように。


 そして、この宝珠を所持していることが知れれば、楽毅がくきも当然命を狙われるのだ。

 手の上にある小さなぎょくが、とてつも無く重いものに感じられた。


 と、その刹那だった。

 宝珠が一瞬だけ閃光のような白い光を放ち、楽毅がくきの網膜を刺激する。


 ──何⁉


 ふと上を見上げると、天井裏から白刃はくじんを突き立てながら彼女目がけて降りてくる白いものが、その視界に入った。


楽毅がくき姉さん!」


 次の刹那、何者かが部屋の中に駆けこみ、その白いものに飛びかかった。

 その拍子に楽毅がくきはバランスを崩し、床に倒れこむ。

 彼女のすぐ側で二本の白刃はくじんきらめき、甲高い摩擦音が部屋に響く。


 顔を上げると、彼女をかばうように立つツェイの小さな背中と、匕首ナイフかざしてそれと対峙している白装束の者がひとり、視界に入った。よく見ると、その白装束の袖には太極図たいきょくずが大きく描かれていた。


ツェイ⁉」

「……姉さん、すぐに逃げてください」


 振り返ることなくそう告げると、ツェイきびすを踏みこみ、白装束の者に飛びかかる。

 薄暗がりの中、尋常ならざる速さで二人は丁々発止ちょうちょうはっしと切り結ぶ。


 ──何て速さなの。


 目にも止まらぬ攻防の連続に、思わず感嘆が漏れる。

 ツェイが戦闘において高い能力を有していることは承知していたが、これほどまでとは。

 相手の男は──顔のほとんどが白い頭巾に覆われていて性別も定かではないが、凶手しかくたぐいなのだろう。流れるような剣さばきを見せているが、それでもツェイがくり出す高速の白刃はくじんを受けるのが精いっぱいで、少しずつされていた。


「貴様、俺に刃を向けるとはどういうつもりだ?」


 白装束の者が怨嗟えんさの声をツェイに向ける。が、彼女は何も答えない。


 ──どういうこと? 二人は知り合い?


 楽毅がくきはますます混乱し、かぶりを振る。


「くぅ……」


 薄皮を剥がすように、白い衣が徐々に削られてゆく。


「そこっ!」


 相手が微妙にバランスを崩した隙を突き、ツェイは渾身の一撃を打ちこむ。

 白頭巾が真っ二つに裂け、凶手しかくの顔があらわになる。


「おのれ……」


 それは四十代くらいの、いかつい顔の男だった。彼は右胸の辺りに手を当てながら、恨めしそうにツェイめつける。よく見ると、そこからじわりと血がにじみ出しているのが分かった。

 男は足を強く踏みこんで跳躍し、箪笥タンスの上に飛び乗る。そして再び跳躍して、元来た天井裏への逃走を試みる。


「逃がすかッ‼」


 その時、楽乗がくじょう楽間がくかんと共に疾風のごとく速さで駆けこんで来ると、彼女は手にしていたげきを男目がけて斬りつけた。


「ぐあぁぁぁぁぁッッッ‼」


 天井にかけた左腕がスパッと斬り落とされ、男は苦悶の声を上げて、切断された腕と共に床に落下する。


 逃がさぬよう、ツェイ楽乗がくじょうが男を挟みこむ。男は傷口を押さえながら、荒々しい呼吸を繰り返す。

 楽間がくかんは、男がもう一度姉に襲いかかる可能性を考え、彼女の側へ寄ってその肩を支える。


「白装束に太極図たいきょくず。貴様は【墨家ぼっか】の者だな? なぜ、楽毅がくきお姉様を狙った⁉︎」


 楽乗がくじょうは男の首元に刃先をあてがい、問うた。

 しかし、男は肩を小刻みに揺らし、彼女を嘲笑あざわらう。


「貴様、何がおかしい⁉」

「ああ、おかしいぜ。俺を【墨家ぼっか】と知って、そんなことを聞くのだからな」

「何だと⁉」

「【墨家ぼっか】の敗北はすなわち、死! 敵に情報を売るなど、ありえぬッ‼」


 男はそう叫ぶと楽乗がくじょうげきみずからの喉元を押し当て、そして首を横に引いた。

 血飛沫ちしぶきが勢いよく舞い上がり、やがて白装束の男はその場に崩れ落ちた。


「こいつ、自分で喉を……」


 白い衣を紅く染め上げて横たわる男を、楽乗がくじょう畏怖いふをもって見下ろした。

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